150 侫奸(ねいかん)逆賊の家系 古沢襄

古沢家のルーツを探る調査の旅には終わりがない。ようやく鬼怒川河畔の下妻市に辿りついたところだ。鬼怒川西岸に川尻という江戸時代の渡船場があった。この地を支配していた土豪に赤松氏がいる。この赤松氏が後に古沢姓を名乗った。
その始祖は赤松祐弁。八千代川尻不動院に「赤松律師祐弁墓碑」があるが、何度か訪れている。この不動院は赤松祐弁によって創建されたものだが、その由来を示す「赤松山不動院縁起」が遺された。
その記録に「総之下州赤松山不動院者 権律師祐弁之所草創也・・・弁姓源延暦第七子具平親王之裔赤松次郎入道円心之曾孫也 心生則祐 祐生満範範乃弁之父也」とある。
五年前にこれを読んだのだが「いやはや大変なことになった」と思った。古沢家の出自は川尻の赤松系古沢氏の支族であるのは間違いないのだが、さらに遡ると第六十二代村上天皇の末裔で、後醍醐天皇の挙兵に応じて、播州赤松村で兵を挙げた赤松次郎左衛門円心ということになる。
それだけならいい。赤松円心は建武の中興後、足利尊氏側に立って戦い、足利政権樹立の参謀となったから、南朝側からすれば逆賊の頭目視されている。さらに五代赤松満祐は足利将軍義教を殺害して、幕府軍から攻められ一族は誅殺された歴史(嘉吉の変)がある。侫奸(ねいかん)逆賊の家系といっても良いだろう。もっとも戦前の皇国史観の評価で戦後は別の評価が生まれている。
祐弁は自ら筆をおこして「赤松山不動院縁起」を書いたのだが、祐弁が父とした満範は「播州赤松系図」には見当たらない。また播州赤松一族は一貫して尊氏党だったのに対して、祐弁と弟の祐日は尊氏と対立した弟の直義党であった。祐弁が赤松円心の曾孫だとする「赤松山不動院縁起」を、そのまま信じるには無理がある。川尻・赤松氏と播州・赤松氏を結ぶ糸が見つからないままルーツを探る調査の旅が小休止している。赤松村にもまだ訪れていない。

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