二・二六事件は私の一生で深い関わりがある。旧制中学の一年生の時に渋谷・隠田にあった大日本赤誠会本部で橋本欣五郎統領と会った。父が橋本氏のブレーンだったからである。元軍人らしい精悍な顔つきの人物だったが「何になるつもりか」と問われた。
私の方は橋本氏の顔が猿みたいだったので、豊臣秀吉もこの様な顔をしていたかな、と考えていたところだった。少し慌てて「陸軍幼年学校に入ります」と答えてしまった。父は困っていた。
幼年学校を受験するつもりでいた私は父に猛反対されてピンタを食らったばかりだった。「子供の時から軍人教育を受ける幼年学校に入ったら片輪になる。軍人になりたいなら中学を卒業して海軍兵学校にしなさい」と認めてくれない。
珍しく父に反抗した。「海軍なんて船頭ではないですか。陸軍こそ軍人の華です」とやったものだから、気の短い父のピンタをモロに食らったわけである。結局は幼年学校をあきらめたのだが、その気持ちが残っている。
「数学は好きか」と続けて問われた。「数学は得意です」と答えた。「それなら砲兵科だな」と言って橋本氏は初めて笑顔をみせた。「いい息子だ」と父にいう。「はあ、剣道と合気道を仕込んでいます」とピンタ男の父は神妙であった。父は剣道五段、私も剣道初段、合気道初段になっていたから、いつまでも子供扱いする父には不満があった。反抗期だったのであろう。
橋本欣五郎・・・明治二十三年に岡山市で生まれている。世上、福岡県生まれの説があるが誤りである。算術が得意で筆立学舎から熊本陸軍幼年学校に入学。日露戦争が勃発した明治三十七年のことである。
三年間の地方幼年学校を経て東京・市ヶ谷の中央幼年学校に全国六つの地方幼年学校から集まった三百人の将校生徒が騎兵、砲兵、歩兵、工兵の四学科に分けられた。数理的な頭脳に優れているとされた生徒は砲兵科に配属された。橋本氏は砲兵科。
陸軍士官学校二十三期。卒業成績は七百三十人中で五番。砲兵科では二番であった。久留米野砲連隊に配属され、大正六年に陸軍大学校に入った。フランス語のほか第二外国語にロシア語を選んで、卒業後、参謀本部第二部のロシア班勤務となった。昭和二年からトルコ大使館付武官となって二年数ヶ月、これが橋本氏の一生を左右する転機となっている。
折からトルコはムスタファ・ケマルによる軍事革命の最中であった。ムスタファ・ケマルはトルコ領であったギリシアのサロニカに生まれ、幼年学校、士官学校を経てコンスチノーブルの陸軍大学を卒業している。
因習にとらわれ近代化が遅れたイスラム・トルコを改革するために、政教分離、一夫多妻制の廃止、アラビア文字に代わるローマ字の採用、男子の帯刀廃止、女子の黒いベールの禁止など近代化政策を掲げて、人民軍という武力を背景にして旧勢力を一掃している。
今でもムスタファ・ケマルは「トルコの父」の尊称で人気が衰えない。橋本氏が同じ軍人であるムスタファ・ケマルにただならぬ親近感を覚えたのも無理もない。ムスタファ・ケマルもアジアの小国であった日本が日露戦争に勝ったことには、並々ならぬ敬意を払い、親日的であった。
帰国後、橋本氏は「桜会」を作り、ムスタファ・ケマル的な維新革命を志向している。陸軍省参謀本部の少壮将校が橋本氏の回りに集まり、国家改造計画が練られた。その目的を達成するためには、武力行使も辞せずとしたのは、ムスタファ・ケマルの軍事革命を想定していたといえる。不発に終わった三月事件、十月事件は、このような背景で行われている。
未公開だった橋本手記には次の記述がある。「三月事件当時の桜会の会員は約百名。主として陸軍大学校出身が大部を占めたり。保身主義者多く、一種の研究機関たるの態度より出ず。ここにおいて、予は桜会員の大変更を決し、隊付少壮将校に呼びかく」
二・二六事件が陸軍大学校出ではなく、隊付少壮将校によって実行された萌芽が橋本手記から読みとれる。言えることは、維新革命の実行主体は陸軍大学校出から隊付少壮将校に移っていったが、その精神イデオローグは三月事件のものを受け継いでいる。
橋本手記は四部だけカーボンで複写されて、刎頸の同志だけに渡されいる。それは敗戦とともに焼き捨てられたが、橋本氏は一部だけ旧知の人に渡していた。三月事件の取材をしていた作家が、この人を訪ねて橋本手記を借用して断りもなく「橋本大佐の手記」として単行本として公刊してしまった。昭和三十八年のことである。
だが東京裁判も風化し、橋本氏も昭和三十二年に亡くなったので、この本は世人の関心を呼ばないまま忘れ去られている。今では神田の古書店でも見つからないであろう。
二・二六事件でもう一人の立て役者は北一輝、決起した青年将校とともに処刑されている。橋本氏と北氏には接点がない。だが橋本氏は「最後の口述」という手記を残していた。そこに北氏との出会いが書かれた。
ある日のこと北一輝君が、ほんの五分でいいから僕に会いたいと申し入れてきた。その時まで僕は北君とは未知の間柄だった。偕行社で会うと「橋本さん、近々革命をやるそうですね」とたずねた。民間人には革命のことは誰にも話していないので、北君が知る筈がない。「やる気だ」と答えると「革命の正否は、一に橋本さんがその時期を示さないことである。このことだけを注意していただきたいので、会いにきたのだ」と言って帰っていった。
十月事件の直前にことである。しかし、この頃から橋本・大川周明一派と北・西田税一派の内部対立が顕在化してきた。橋本氏の片腕であって沖縄戦で自決した長勇少将は次の手記を残していた。
桜会上層幹部は待合料亭で連夜の如く会合を持ったが、純真なる尉官階級の青年将校は不満を抱いて、皇道派の将校は西田税に従っていった。佐官階級の中にも躊躇逡巡するものが出て、さすがに革命家をもって任じる橋本氏も、とかく決心が鈍りがちだった。橋本氏の後ろ盾だった建川美次少将も十月事件の中止を求めた。
十月事件が未遂に終わり、犬養首相が非業の死をとげた五・一五事件にも関与できなかった橋本氏は、日本での軍事革命の限界を覚っていた。ムスタファ・ケマルの様に広範な民衆の支持を得た人民軍と違って、日本は天皇の軍隊である。天皇の許可なく軍を動かすのは反乱軍とみなされる。二・二六事件後、橋本氏は大日本青年党を組織して、武力によらない大衆動員によって維新革命を目指す方向転換をした。
二・二六事件の時には三島の野戦重砲兵第二連隊長になっていた。東京から同志の電話がしきりにかかってきた。「この事件には何ら関係していない。上京はせぬ」と断っていたが、事件が叛乱鎮圧の方向と知ると「早く行って、決起部隊を兵営に戻さなくちゃー。彼らは国賊になってしまう。俺が行かなくては納まらんよ」と上京を決意した。
九段の憲兵隊司令部で石原莞爾作戦部長と会うが、多くの参謀たちは招かざる客という扱いで冷たかった。反乱軍も橋本氏と対立している北・西田税一派の影響の下に置かれている。青年将校の間では建川少将と橋本大佐は革命の血祭りにあげると息巻く者があった。
それでも陸相官邸に乗り込んで村中孝二大尉と会っている。このあと橋本氏は石原氏と反乱軍の大赦を条件にして降伏させる案で村中大尉を説得する案を作った。村中氏は「北さんや西田さんの諒解が得られれば・・・」と渋々答えた。
ところが昭和天皇は「徹底的に始末せよ。戒厳令を悪用することなかれ」と厳しい沙汰を下した。「決起した青年将校を指して、陛下は暴徒と呼ばれた。こうなっては事終われだ」と橋本氏は、悄然として三島に帰任している。半年後に橋本氏は予備役に回され、軍服を脱いだ。戦後、昭和三十一年のことになるが、渋谷でバスに乗ったら橋本氏に偶然会った。東京裁判で終身禁固の判決を受けたが、前年の三十年九月に巣鴨拘置所を仮出所していた。
私の顔を覚えていて「数学を勉強しているか」と笑っていた。記憶力の素晴らしい人物とあらためて思った。翌年の昭和三十二年六月二十九日に肺ガンで死去。社会人になっていた私は仙台の赴任地で風雲児・橋本欣五郎の死を聞いた。
260 ムスタファ・ケマルと橋本欣五郎 古沢襄
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