少年は今から48年前、合宿していた夏の野球グラウンドで打順を待っている間に昏倒した。周りは日射病と思ったが、脚気(かっけ)が心臓を冒していたのだった。担ぎ込まれた病院で死んだ。脚気とは今でこそビタミンB1の欠乏症とみな知っているが、少年は 勉強をおえたあとの野球の疲れから回復するための砂糖の摂り過ぎが、脚気を招くところまでは知らなかったのだ。
砂糖は疲労回復には早い効き目があるが、その消化には多量のビタミンB1が使われるので、つい脚気を引き起こしやすい、とは知らなかった。今の少年たちも知らないことは同じだろう。
そもそもある時期まで、日本では海軍が栄養欠陥原因説に沿って脚気をなくしたのに対し、陸軍ではドイツ留学から帰って、のちに軍医総監となる・森鴎外(本名林太郎)が先頭に立って黴菌説を譲らず海軍を罵倒した。それが明治44年2月に東大教授にして盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)教授の鈴木梅太郎が米の糠から「オリザニン」の存在を学界に報告し、同年12月、ポーランドの化学者フンクが同じ物質を「ビタミン」として発表して脚気はビタミンの欠乏によって起きるのだと宣言するまでは、日本陸軍では脚気は黴菌説を唱えるるだけでなにもせず驚くほど多量の死者を座視した。麦飯の海軍では殆ど無かったのに。
平凡社の「世界大百科事典」の「脚気」の項(執筆者立川昭二)によると、ビタミンB1は酵母、穀物の胚芽、もやし、豆類に多量に含まれているので、日本人の標準的な食事を摂っている限り、B1の欠乏症になることは少ない。しかし精米して胚芽を取り除いた白米にはビタミンB1が殆ど含まれていないので、白米ばかり食べているとB1欠乏症になる可能性がある。豚肉、たら子とか豆腐を食べれば脚気にはならない、今では。
何しろほぼ日本にしか無い病気だし、江戸や大坂に主として流行する死の病気だから様々な説が流れた。江戸時代の元禄~享保年間(17世紀末~18世紀初め)に江戸で大流行した。この年代は日本人の米食がそれまでの玄米又は半つき米から精白度の高い白米に移行した時期と一致している.また寛政年間(1789~1801)には京都、文化年間(1804-18)には大坂で流行した記録がみられ「江戸煩い」あるいは「大坂腫れ」などとよばれた。しかしながら治療法もないまま黴菌(ばいきん)による風土病とするドイツ医学の鴎外説が幅をきかせた。
ところがここにイギリス留学帰りで海軍病院長の高木兼寛(かねひろ)という人がいて、イギリスでの体験からしてこれは栄養のアンバランスからくるもの、との信念のもと、海軍ではメシに麦を混ぜたり、肉食をさせたりした。海軍首脳も少しでも効き目があるなら理屈はあとでいいというイギリス医学流のやり方を全面的に支持して兵士には麦交じりのメシとかパン、肉賞を与えた結果、あっという間に脚気患者はほとんど出なくなった。この事を伝え聞いた明治天皇は高木を 3度も招いて話をきかれた。だが、陸軍はがんとして高木説に耳を貸すことをせず、兵に銀シャリをたらふく食わせた。脚気患者は続出しどんどん死者が出た。
こうしたことは吉村昭の力作「白い航跡」上下(講談社文庫)にくわしい。吉村によれば、脚気は江戸時代でも多く見られ、足がはれるのが特徴であることから、中国ではこれを脚気―キャクキと称していた。多分今になっていると、江戸以前では雑穀を多食して、結果的にビタミンB1を十分に摂取する結果になっていたことは先述したとおり。
これに対して、明治9年に来日した東京大学医学部教授のドイツ人ベルツは黴菌(伝染秒)説を唱え、これがその後長く日本医学界を支配した。ただし病原菌が見つからないから治療法や薬も当然無かったのも先述のとおり。明治27年の日清戦争によるわが国の戦死・戦傷死者は1,270名に対し脚気死者は3倍以上の 3,944名に上った。10年後の日露戦争では戦死・戦勝病死者84,200名に対し脚気死者は27,800余名だった。戦場に着く前の船中で脚気死するものが多かった、と記録にある。ハラ一杯食わせれば食わせるほど死ぬ、それも上陸前に死なれるのが多いのでは話にならなかった筈だが、高木の説には依然、耳を貸さず、森は激越な講演をして非難するばかりだった。
高木は1830年2月に宮崎県で生まれたが、3歳で母に死なれたのがきっかけで養子に出され医師になり、やがて海軍の医師としてイギリスに留学した。その時の体験から脚気は栄養の欠陥からと信じるようになった。
「兼寛も、自分の説が学問的な論理に乏しいことはよく承知していた。が、臨床医学を重んじるイギリス医学を身につけた彼にとって、それはさしたる重要な問題ではなかった。イギリス医学の基本は実証主義で、兼寛も統計を重視視し、あれこれと模索した末に麦混合の飯を主食とするのが最も好ましいという結論に達した。(それにより海軍では)脚気患者は皆無になった」。対する「森は最新のドイツ医学を身に付けてきたという自負を抱き、華やかさにおいて、はるかに劣るイギリス医学を軽視する風があった。そのイギリス医学をまなんだ兼寛が、洋食または麦食が脚気予防と治療に絶対的な効果があると説き、天皇にまで奏上していることに不快感をいだいていた」と吉村は解釈し、「鴎外の歴史小説に深い畏敬の念をいだく私は、医学者としての思わぬ森林太郎の動きを知り、まことに興味深かった」とむすんでいるが、どうだろう。怒りさえ覚える人がいるのじゃないか。
日清・日露に徴兵されたのはおおかた小作農のニ、三男。農家に生まれながら貧しさのあまりコメの飯を腹いっぱい食ったことなんかなかった。それが、軍隊では腹いっぱいくえる。副食物(おかず)は支給された現金で買うことになっていたが、兵士たちはその現金は親元に送金して、メシばっかりたらふく食べていた。豚肉(ビタミンB1が豊富)などは忌み嫌って食べなかった。これじゃ脚気にならない方がおかしい。
しかし高木は鴎外に悪罵されたまま淋しく死んだ。唯一の理解者が明治天皇だった。 暖衣飽食の今では脚気という病名すら知らない人が多いかも知れない。高木兼寛は日本における初の私立医科大学慈恵医科大学を残した。(杜父魚文庫より)
621 621 藪医者森鴎外 渡部亮次郎
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