712 朝鮮戦争を知らぬ世代 渡部亮次郎

今から57年前の1950(昭和25)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。
当時、日本にはまだテレビがなく、私(中学3年生)たち子供は開戦の事実を知らないまま年月は去った。
あれからもう57年が経った。団塊の世代を含む以後の世代は朝鮮戦争を殆ど知らない。だが、あの戦争こそはアジアを舞台にした米ソ対立惨禍であり、依然、北朝鮮がアジアの火薬庫にしておく源淵である。
あの日は日曜だった。しかも韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していて、李承晩への報告は、奇襲後6時間たってからであった。
しかも、T-34戦車を中核にした攻撃により、米との協定によって対戦車装備を持たない韓国軍は総崩れとなっていた。北朝鮮軍は3日後の28日には韓国の首都ソウルを占領した。
こうした事態に対して国連は、侵攻2週間後の7月7日に招集した安保理で「米国による国連軍指揮」を認め、日本統治に当っているマッカーサー元帥が国連軍司令官に任命された。
一旦、南に追い詰められた国連軍は9月15日、仁川上陸作戦に成功、以後、反撃に転じた。
日本の国内では臨戦態勢が敷かれ、共産党首脳部の公職追放、警察予備隊の設置(自衛隊の前身)、軍事基地の強化などが実施され、米軍の前進基地としての役割が実証された。この事実はのちの日米安保条約の下敷きになった。
当然、日本は敗戦からまだ独立していない時期だったが、朝鮮戦争特需が起こり経済再建が急速に推進された。韓国要人に会うと「韓国の犠牲の下、日本は発展した」と真面目に揶揄されたものだ。
当初の韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かった。
これに対し韓国軍は建国(1948年8月13日)後に新たに編成された師団ばかりで、将校の多くは日本軍出身者であったが各部隊毎の訓練が完了していなかった。
また、来るべき戦争に備えて訓練・準備を行っていた北朝鮮軍の装備や戦術がソ連流だったのに対して、韓国軍は戦術は旧日本軍流であり、装備は米軍から供給された物が中心であったものの軍事協定によって重火器が不足しており、特に戦車を1台も装備しておらず航空機もほとんど装備していなかった。
その結果、貧弱な空軍は緒戦の空襲で撃破され地上戦でも総崩れとなったのだった。
10月1日、韓国軍は祖国統一の好機と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破した。10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は中国に参戦を要請。
中国の国務院総理(首相)周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告。だが10月9日には国連軍も38度線を超えて進撃した。
これまで参戦には消極的だった中国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って人民解放軍を「志願兵」として派遣することを決定する。なお、「志願兵」とは名ばかりで、派兵された中国人民志願軍は彭徳懐を司令官とし、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。
また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機MiG-15が投入され、アメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のF-84やF-80との間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。
MiG-15は当初、国連軍のレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していたF-84やF-80に対しても有利に戦いを進めていた(俗に言う”ミグ回廊”の形成)が、すぐさまアメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機F-86Aを投入した。いずれにしてもF-86の圧勝に終わった。
この後、ソ連の提案により停戦が模索され、1951年7月から休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。
1953年に入ると、米国では1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死に、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。
7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結した。(調印者:金日成・朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐・中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク・国際連合軍司令部総司令官。李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった。)マッカーサーは原爆投入を主張してトルーマン大統領から解任されていた。
板門店がソウルと開城の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であった。なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国義勇軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、死傷者は韓国軍約20万人、米軍は約14万人、国連軍全体では36万人に達した

一方、米国の推定では、北朝鮮軍が約52万人、中国義勇軍は約90万人が死傷したとされており、毛沢東国家主席の2人の息子も戦死した。
一般市民の犠牲者は100万人とも200万人とも言われ、一説には全体で400万人の犠牲者が出たとされる。
また、夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された、というような離散家族が多数生まれた。両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となったうえ、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。
韓国は停戦後、政治の混乱によって復興が遅れたが、朴正煕大統領が米国と日本から多額の援助を獲得して以来、急速な復興と成長を成し遂げ、『漢江の奇跡』と称された。
朴の政治手法は開発独裁と呼ばれるものであったが、彼以降の30数年で、アジア有数の工業国となり、北朝鮮との経済格差は朴の時代に2倍、全斗煥の時代には3倍に開いた。
全の時代には独裁に対抗する市民や学生らの運動が高まり、政治的民主化が促進された。ソウルオリンピック(1988年)に成功した時点の北との経済格差は4倍に拡大した。
その後も深刻な経済危機を克服して、日本とともにFIFAワールドカップ(2002年)の開催を実現するまでに国際社会の信用を獲得している。また、長らくソウル北部は侵攻に備えて発展から取り残されてきたが、緊張緩和によって急速に住宅地として整備されている。
また、戦車の侵攻を防ぐ目的で設けられていた戦車止めも取り壊されつつある。一方、男子には一定の徴兵期間が義務として設けられているほか、数ヶ月に1回は各地方・都市で空襲に備えた民間防衛訓練(民防)が行われている。
北朝鮮は金日成が国内派閥の粛清を進めて、個人崇拝を強化した独裁政権が確立し、政治の安定が図られた。
中ソ対立のあおりを受けて自主を掲げる主体思想を前面に掲げた国づくりを目指したが、対南工作と呼ばれるゲリラ戦やスパイを繰り返し、しばしば外国民の拉致を行った。
冷戦終結による東欧革命、ソ連崩壊、金日成死去と立て続けに国家を揺るがす事態に遭遇した。息子の金正日は一党独裁(朝鮮労働党以外にも政党はあるもののそれらは衛星政党である)による権力の世襲を行い、「先軍政治」と呼ばれる軍優先の社会を作り出した。
政権初期の自然災害によって飢餓が生じたが有効な手立てを打てず、餓死者などが数多く出たと考えられている。
2000年ごろから中国を手本にした改革を行っているが、かえって貧富の格差が広がった。また、偽札や覚せい剤の製造など国家ぐるみの犯罪と人権蹂躙を諸外国から非難されている。参考資料:「昭和史事典1923-1983 講談社。「ウィキペディア」2007・06・25

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