1958 ルーツを求めて20年(7) 古沢襄

「姓氏家系大辞典」の古沢の項に①小野姓横山党②秀郷流藤原姓のルーツが示されている。苗字の八割以上は地名からくるのだが、この二つは少し違う。
小野姓横山党は武蔵七党の一つである。まずは聞き慣れない「武蔵七党」をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で見てみる。
武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。
横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党などが知られているが、鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』には「武蔵七党」との表現がないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられており、数え方も文献により異なり一定していない。
横山党については、武蔵国多摩郡横山庄(現在の東京都八王子市付近に当たる)を中心に、大里郡(現埼玉県北部の熊谷市や深谷市とその周辺地域)および比企郡から橘樹郡(現在の神奈川県川崎市の市域に相当)にかけての武蔵国、さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸流域一帯)にまで勢力があった武士団。
一族は横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏などがあるが、そこに古沢(フルサワ)氏と古庄(フルショウ)氏が出てくる。古庄は古沢と同義語とみていい。
「多賀谷氏の史的考察」を著した古沢一朗氏は、多賀谷氏の祖は武蔵七党の野与党と比定している。埼玉県北埼玉郡騎西町多賀谷の地名から多賀谷姓がでたという説をとった。ここでは多賀谷氏の出自を論じるつもりはない。武蔵七党に古沢氏があったことに触れたかった。
もう一つの秀郷流藤原姓の古沢氏は、相模国愛甲郡の古庄邑と繋がりがある。だが、単純に地名が苗字に結びついた例示ともいえない。ある意味では古沢姓は通過点で、九州の雄に結びつくダイナミックな例示となっている。
平将門を誅殺した田原藤太秀郷は武家藤原氏として子孫の数が多く、関東、東北で勢威を振るっている。<藤>がつく苗字は三百とまでいわれた。秀郷流の一分脈に近藤侑行の名がみえる。尊卑分脈によれば近藤は近江国に住む武家藤原姓の意味だという。
吾妻鏡の寿永元年五月の条に「相模国金剛寺の僧侶が訴状を持って、古庄近藤太の非法を鎌倉に訴えでた」という記録がある。ここでいう古庄近藤太は近藤侑行ではない。佐藤系図には「侑行(近藤太)・景親(島田権守)・能成(古沢近藤太)・能直(大友)」とある。
尊卑分脈では能成(古沢近藤太)は住相模国。また鎌倉武者所の左近将監の役職についていた。さらに妻が相模国足柄郡大友邑からおこった大友経家の娘。能成は鎌倉武士として飛ぶ鳥を落とす勢いにあったから、専横の振る舞いがあったのではないか。
この古沢近藤太能成は政治性に長けていた様に思われる。子の古沢能直をあっさり斉院次官親能の養子に出している。親能の妻も大友経家の娘だった縁による。
吾妻鏡巻二十一に「故掃部頭親能入道猶子左衛門尉能直」とある。大日本史氏族志には「能成の子能直・中原親能の子養する所となる、姓中原を冒し、大友氏と称す」となっている。
やがて鎌倉幕府の命を受けた能直は豊後守護として九州に入る。いわゆる「下り衆」である。この系譜からキリシタン大名で九州の雄となった大友宗麟が生まれた。豊後の大友家は相模の大友家の流れを引くことになる。また九州には古沢姓や古庄姓がある。沢内・古沢氏とは違う流れだが、古沢近藤太能成の野望が九州に花咲いた感じがしてならない。(おわり)
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