世の中は円周率のように永遠に割り切れないもので、曖昧にしておいたほうがいい場合もあるのだろう。戦後、日韓条約を結んだとき、竹島の領有問題にこだわれば条約締結が暗礁に乗り上げてしまうので、決着をつけずに封印してしまった。
「小異を捨てて大同につく」と言うが、国交を正常化するという「大同」のために、竹島(対中では尖閣諸島)という「小異」を棚上げせざるを得なかったのだが、何年、何十年たつと、この「小異」が「大異」となるのだから、外交というのは実に難しい。「大同」のツケが回ってきた。
領土という国家の根源にかかわる問題を棚上げしてまで国交正常化を急ぐ必要があったのか。相手の譲歩を引き出すべきだったのではないか。今、小生はそう思うが、多分これは歴史の後出しジャンケン的解釈だろう。
当時の為政者にとって、韓国(中国)との国交正常化は日本の将来の国益、プレゼンスのために必要で、それは領土問題を封印してもなすべき課題だったろう。
政財官の秀才がそう判断し、圧倒的多数の国民もそれを支持したのである。今や韓国(中国)とは概ね友好関係にあり、経済パートナーになっているのだから、当時のその判断は正しかった、あるいは間違いではなかったというべきである。
この「領土問題の封印」について、財団法人日韓文化交流基金・日韓歴史共同研究委員会の論文「補論 日韓基本関係条約をめぐる論議」(塚本孝著)にはこうある。
<基本関係条約(及び諸協定)をめぐって、日韓両国では国交正常化交渉以来のもろもろの懸案をめぐりさまざまな論議が行われたが、主要な論点につき政府が広報資料や国会論議を通じて国民に示した説明は、日韓両国においてまったく矛盾したものであった。
大韓民国政府の性格や旧条約の効力については、両国政府の見解が実質的に相違し、いわば同床異夢の状態で条約が締結された(本稿では取り上げなかったが、漁業協定と李ラインの関係、紛争解決交換公文と竹島の関係についても同様の問題がある)。
条約とは国家間の文書による合意であるが、ここで合意されたことは、争点に対する結論ではなく、国交を正常化するという点であった。すなわち、(略)両国を巡る政治、経済、国際情勢の中で国交正常化するという大目的のために条約を締結し、国会の承認を得るために各々国内向けの説明をしたのである。>
「大目的のためには細部に目をつぶることもある」のが政治なのだろう。ちなみにこの論文は韓国外交通商省のサイトにも転載されている。
ここでいう李ラインとは「李承晩ライン」のことで、占領下にある日本が身動きできぬのをいいことに韓国の李承晩大統領が勝手に領海宣言をし、武力で占拠したのだ。
「条約によって得られなかったことを一方的行為で実現しようとしたと評せざるを得ない」と塚本氏は記している。卑怯である。儒教の国として恥ずかしくないのか。
今、韓国は「対馬も韓国領だ」と騒ぎ始めている。元と朝鮮は1274年と1281年に日本に侵攻したが、対馬は多くの島民が虐殺された。この時の怒りが主に対馬島民による倭寇の凶暴化となり、朝鮮と支那を震え上がらせたことを韓国人は思い出すべきである。
それを遡る660年、唐と新羅に攻められて逃げてきた百済の人々を日本は保護したのみならず、再興のために軍船を整えて唐・新羅連合軍と激突した。武運拙く負けたものの、日本は2000人もの亡命者を受け入れて手厚く保護したのだ。恩を忘れてはいけない。
それから1300年、1960年代の日韓国交正常化で日本は多額の税金を韓国に投入した。最貧国のひとつだった韓国はガソリンを注入されて急成長した。60万人の在日は特別永住権を得て安心して暮らしている。誰のお陰か。
日本人は温和しいが、ある日「堪忍袋の緒が切れた」と一気に怒りを爆発し、怒濤の進撃をしかねないから、韓国人は自制とか遠慮とかを少しは学んだほうがいいだろう。
<竹島関係参考資料>
塚本孝氏は国立国会図書館参事を務めていたが、氏の「戦後における竹島問題 サン・フランシスコ平和条約における竹島の取り扱い 平成17年9月27日 研究会メモ」は、竹島の領有について貴重な資料を 提供してくれる。以下、長いが引用する。
3.サン・フランシスコ平和条約の起草過程
米国国務省の担当者が1947年3月から1949年12月まで数次にわたり草案(内部検討用の試案)を作成した。この時期の草案は、日本に残す島の名称を列挙し、付属地図で日本の領土的範囲を示す方式を採っていた。
・・・1949年11月までの米国国務省草案では、竹島は、朝鮮放棄条項に掲げられていた。1949年11月草案について意見を求められたシーボルド駐日米政治顧問代理は、竹島に対する日本の領土主張は古く正当であると思われるとして再考を勧告した。これを受けて1949年12月の草案では、竹島が日本が保持する領域に加えられ、朝鮮放棄条項からは削られた。
1950年春以降、ダレス(John Foster Dulles)国務長官顧問が各国との調整など実質的な起草者としての役割を担うことになる。ダレスは、それ以前の国務省草案よりも簡潔な草案を作成し、日本に残す島の名前を列挙したり地図で日本の領域を示す方式を取りやめた。
この結果竹島の名称も草案から消えたが、竹島を日本が保持する主旨に変わりはなかった(例えば、いわゆる対日講和七原則に関する1950年9月11日付けオーストラリア政府の質問について米国国務省の担当官が作成した回答の中で、竹島の日本保持が明言されている)。
米国としての正式な草案は1951年3月23日付けで作成され、各国に示された。同草案の朝鮮放棄条項は、単に「日本は、朝鮮、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定していた。
他方、英国は、独自に対日平和条約草案を作成していた。1951年4月7日付け英国草案は、かつての米国国務省草案のように経度緯度による記述と地図上での日本を囲繞する線により日本の領土的範囲を規定していた。竹島は、その線の外に置かれていた。
1951年5月ワシントンで米英の協議が行われ、日本の範囲を特定する英国草案の方式は採用されないことになった。英国は朝鮮放棄条項に済州島、巨文島、鬱陵島の名称を加えることを主張し、米国は受け入れた(英国草案では竹島を日本の範囲から除外していたが、この協議の記録では英国は済州島、巨文島、鬱陵島にしか言及していない。英国は SCAPIN677を踏襲して竹島を除外 していたものの、そのことに固執しなかったと考えられる)。
1951年6月にロンドンで再度米英の協議が行われ、その結果1951年6月14日付けで改訂米英草案が成立した。同草案の朝鮮放棄条項は、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」となり、この条文が最終的に1951年9月8日の日本国との平和条約(サン・フランシスコ平和条約)第2条となった。
以上要するに、サン・フランシスコ平和条約上、竹島を日本が保持することが確定した。
4.韓国の竹島領土要求と米国による拒否
1951年6月の改訂米英草案について韓国政府は、1951年7月19日付けで、竹島を韓国領土とする修正を要求した。ダレス国務長官顧問は、当日修正要求の文書を持参した梁祐燦韓国大使に、独島と波浪島の位置について尋ね、韓豹 一等書記 官が、これらは日本海にある小島であり、だいたい鬱陵島の近くだと思うと答えた。
改訂米英草案:「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」
韓国の修正案:「日本国は、朝鮮の独立を承認して、朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及び波浪島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を、1945年8月9日に放棄したことを確認する。」
この修正要求に対して、米国政府は、1951年8月10日付け文書で回答し、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を条約がとるべきだとは思わない、
独島又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年ころから日本の島根県隠岐支庁の管轄下にある、この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われない、として修正要求を拒否した。
7月19日の会談の席上、独島と波浪島の位置を聞かれたとき、大使は答えず、一等書記官が波浪島(東シナ海にある暗礁とされる)を含め鬱陵島の近くだろうと自信なく答えている。
また、8月3日付けの米国国務省のメモには、独島と波浪島を韓国大使館に照会したところ、独島は鬱陵島又は竹島の近くであろう、波浪島もそうかもしれないとのことであったとある。
韓国政府としては、いかにも準備不足であった。しかし、歴史に「if」はない。行われたことは行われたことである。前記3の経過からだけでなく、以上のことからも、サン・フランシスコ平和条約上、竹島を日本が保持することが確定したのである。
竹島領有権紛争が日韓間で顕在化するのは、韓国が1952年1月李承晩ラインを設定し、竹島を同ライン内に取り込んだことによるが、条約によって得られなかったことを一方的行為で実現しようとしたと評せざるを得ない。
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