瀬島氏捕虜売り渡しスパイ説の明白な否定理由(1)
参照:「スターリンの国際戦略から見る大東亜戦争と日本人の課題」 落合道夫著
http://www3.plala.or.jp/tkyokinken/
さても読者氏より昨日の我が日記に関して
<<いつもありがたく拝読しています。以下の情報の感想です。
引用:>
知人で瀬島と懇意だった同台経済懇話会常任理事・野地二見氏によると「(瀬島の捕虜売り渡し話は)ソ連側が収容所で流したデマエ作によるものだった。このことはソ連崩壊後の情報公開で明らかになった」という。(筆者註:拙著「大計なき国家・日本の末路」より
感想:瀬島龍三氏の捕虜売り渡しスパイ説は以下の理由で明白に否定されます。
1.左翼が流すデマ:本当ならソ連が許すはずがない。ということで話にならないオソマツ。
2.ソ連工作の実態:スターリンは第二次大戦で捕えた各国の捕虜をスパイに使うことを考えた。そこでスパイになれば早く帰すという条件でスパイを強要した。
この結果日本では五百名とも一千名ともいう捕虜が、ソ連スパイになることに同意して帰国を許された。これはドイツ、イタリア、その他の捕虜も同じである。
彼らは帰国すると、日本共産党などの在日左翼組織とは一切関係を持たなかった。いわゆるスリーパーになったのである。そして各分野で昇進した。そしてある日、電話がきて、恐ろしい暗証をいう。スパイ強要の始まりである。
3.早期帰国:したがってソ連スパイの条件は早期帰国者である。そうでないと社会で昇進できないからである。スターリンは下層階級の人間は利用価値がないのでまったく相手にしなかった。
瀬島氏は10年以上の抑留を経験し、スターリンの死で始めて釈放された人である。本来は殺されていた人である。ということでスパイではないことが簡単に分かる。スパイはすぐに帰国したのである。
4.瀬島龍三氏の事績:ソ連は帰国させたことが悔しくて、左翼をつかって誹謗中傷をした。それを信じる日本人は馬鹿である。しかし、謀略工作ではソ連は超一流である。人間の卑しい心理をよく知っている。
■「愚かな大衆は連想し、知識人は推理する」(2)
5.近衛文隆氏の暗殺:近衛首相の長男・文隆砲兵中尉は抑留10年帰国が決まると、直前に毒殺された。KGBの仕業である。彼はスパイになることを拒否してきたのである。
文隆氏は、戦前米国に留学した人で、人格識見とも立派な人であった。だからソ連は日本支配の邪魔になると思い殺したのであろう。
仏のジャック・ロッシ氏は、獄中で近衛氏と会話(英語)した時の楽しい思い出を書いている。近衛中尉は長年の苦難にまけないさわやかな方であったという。文隆氏は同囚の日本人捕虜が病気で弱っていると、自分の乏しい食事を分け与えるような立派な人であった。
以上から、瀬島氏スパイ説は、全く馬鹿げた話であることが分かる。「愚かな大衆は連想し、知識人は推理する」とルボンは記している。
瀬島氏スパイ論は、謀略にすぐだまされる愚かな大衆の連想の結果である。しかしちょっとでも歴史を知っている知識人が合理的に推理すれば簡単に否定されるのである。
なお「正論」12月号において
http://www.fujisan.co.jp/Product/1482/
東京大学名誉教授小堀桂一郎氏も瀬島氏の捕虜売り渡しスパイ説疑惑について、拙著に対する書評の中で、
以下のように述べておられます。
<<生き残った軍人達の貴重な力をこの面(筆者註:戦後の情報戦)に活用できなかった不明にもまして、大きな過誤は、戦没将兵の霊に対する政府の忘恩と非礼である。
これは戦後の歳月の経過につれて益々顕著になった疲弊で、著者によれば、<占領政策の教育効果>が深く静かに潜行して日本人の精神の根幹をと(漢字)害し続けた、占領後遺症の重患部である。
論壇や自称現代史家達の中にも俗に言ふ能天気な人々が如何に多いか。
故瀬島龍三氏に向けられた所謂「密約疑惑」について著者は<これは戦争、とりわけ欧米諸国を相手に戦争し負けたらどうなるか、その実態を知らぬ者の実に無責任極まる発言>と断言してゐる。
評者も全く同感である>>
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近衞文隆(このえ ふみたか)= 1915年4月3日 -1956年10月29日 死没地 ソビエト連邦イヴァノヴォ州
近衞文隆は、昭和期の陸軍軍人。元首相近衞文麿・千代子(父は豊後佐伯藩主・毛利高範、子爵)夫妻の長男。家系は藤原北家の嫡流にして摂家筆頭・近衞家。京都府出身。階級は陸軍中尉。位階は従五位。学歴はプリンストン大学政治学部修業。
学習院中等科卒業後、外交官を目指し、周囲の反対を押し切りアメリカに留学し、ローレンスヴィル高校を卒業、プリンストン大学に学んだ。ゴルフ部長として全米1位となる。滞米中はアマチュアゴルファーとして活躍。1938年(昭和13年)に帰国し、父の秘書官となる。
翌1939年(昭和14年)、東亜同文書院講師、兼学生主事(俸給・月 117円60銭、在外手当・月 54円40銭)に就任して上海へ赴く。上海では蒋介石との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、閣議でも問題視されたため帰国。
なお、中国側の女スパイだった鄭蘋茹に篭絡された文隆が機密情報を漏洩するのを恐れて帰国を命令したとする説もある。帰国後も青年同志会という組織を作って直接交渉を主張した。そのため軍部から問題視され、1940年(昭和15年)2月に召集され、満州阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生考査に合格して陸軍中尉まで昇進。
太平洋戦争のさなか、貞明皇后の姪・大谷正子と1944年(昭和19年)にハルビンで結婚。1945年(昭和20年)8月15日、満州で終戦を迎え、GRUのスメルシ部隊によって襲撃を受け、8月19日に捕虜となる。その後、シベリア抑留で15ヶ所もの収容所を転々と移動させられた。
1949年(昭和24年)のハバロフスク裁判で国際ブルジョアジー幇助という罪で25年の禁固刑を受ける。抑留中は士官であることを盾に労役を断固拒否しソ連に対し気骨のあるところを見せた。1955年(昭和30年)の日ソ国交正常化交渉に際し、鳩山一郎首相の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、1956年(昭和31年)10月29日にイヴァノヴォ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村のイヴァノヴォ収容所(内務省第48号ラーギリ)で、動脈硬化による脳出血と急性腎炎のため死去したとされる。しかし、ソ連による暗殺説もある。その後、遺骨は正子夫人の尽力で1958年(昭和33年)に帰国した。
1991年(平成3年)10月18日付「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法第2条、3条で無罪、名誉回復。1992年(平成4年)2月27日、ロシア連邦軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、1997年(平成9年)10月16日、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した。
正子夫人との間に実子はない。庶子(妾腹の子)に俳優の東隆明がいる。東には男子がいる。文隆という嫡男を失った近衞家は、文麿外孫の細川護煇を養子となし、護煇は近衞忠煇と改名した。
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