5982 カーター大統領時代の日本への意味とは 古森義久

■日本と安定した絆を
民主党のジミー・カーター氏が米国の第39代大統領に就任した日のワシントンは厳寒だった。空は早くから青く晴れ上がったが、気温は氷点下7、8度と、身を切るようだった。
1977年1月20日、初めて目の当たりにする大統領就任式とあって、私は清新な思いだった。議事堂東正面に設けられた式場の記者席は意外と宣誓の場に近かった。
就任宣誓をすませたカーター氏はホワイトハウスまでの2キロ余の自動車行進を半分ほどで止め、街路にひょいと飛び降りた。ロザリン夫人と手をつなぎ、徒歩で行進する。既成の政治勢力への抗議を掲げて当選した草の根ポピュリズムの政治家らしいパフォーマンスだった。
52歳の彼は南部ジョージア州の知事を1期務めただけで、国政の経験はゼロ、海軍士官として潜水艦勤務の軍歴こそあるが、職業はピーナツ栽培の農業、そしてキリスト教の牧師でもあった。外交も経験はなかったが、選挙戦中から一貫して「道義」を基にする「人権外交」を説いていた。
大統領の最側近も32歳の政治担当補佐官ハミルトン・ジョーダン氏、33歳の報道官ジョディ・パウエル氏と、若いジョージア組で固められていた。ベトナム戦争での挫折直後の反ワシントン志向の反映でもあった。
カーター新政権のホワイトハウスは日本人記者に驚くほど友好的だった。パウエル氏やジョーダン氏は私が話しかけてもごく気軽に応答してくれた。カーター大統領も日米同盟の重視をうたっていた。東西冷戦を背景にベトナムや朝鮮半島での激動や緊迫が続くなかでは、日本との安定したきずなを大切とみなしたのだろう。
そのころ初めてインタビューしたエドウィン・ライシャワー元駐日大使も「日本国内で反発の激しかった米国のベトナム介入が終わったため日米関係も非常に良くなった」と述べていた。日米間では経済摩擦もまだほとんどなかった。
やがてホワイトハウスのスタッフと日本人記者団とのソフトボール試合が休日の朝に催されたほどだった。試合はホワイトハウス側が圧倒的に強かった。日本側には東大野球部の選手として活躍した共同通信の金子敦郎記者もいたが、チームとしては20点ほどの大差での惨敗だった。だが試合にはパウエル夫妻も参加して、大にぎわいだった。近年では考えられない日米交流である。
私は個人としてもカーター政権の各省の幹部たちに知己を得ることができた。慶応大学柔道部で激しく練習をした旧友のメイナード・トールがカーター政権に入り始めた友人たちを次々に紹介してくれたのだ。
メイナードはスタンフォード大学から慶応大学に交換留学生としてきて、勉学のかたわら柔道部に入った。初心者だったが、一年まるまる休みなく練習に励み、私たちとすっかり親しくなった。
帰国後は彼はジョンズホプキンス大学院を出て、議会に就職し、上院民主党の大物のエド・マスキー議員の首席補佐官にまでなっていた。その民主党の仲間たちがカーター政権の誕生で国務省や国防総省の中枢ポストに就き出したのだ。
米国では政権が代われば、官僚機構の上層部に大統領と同じ政党の人材が3千人以上も政治任命として新たに入ってくるというシステムも実地に知らされた。
政権発足直後、メイナードの友人のひとり、ジム・ウールジーという30代の弁護士を小さな事務所に訪れ、歓談していると、電話が鳴った。受話器を取り、しばらく話していた彼は「いま新政権の友人から海軍次官にならないかという話がありました」と告げるのだった。
その数日後、ウールジー氏の海軍次官任命が正式に発表された。なるほど米国の行政府の政治任命制度はこんなふうに柔軟で自由に機能するのかと感嘆した。
ウールジー氏はメイナードのスタンフォード大学時代の同級生で軍事問題の専門家として上院軍事委員会で働いた経験があることが後に分かった。ちなみに同氏はクリントン政権ではCIA(中央情報局)長官に任命された。
こんな体験を経て、私はカーター政権には自然と親しみを感じるようになった。(産経新聞ワシントン駐在編集特別委員)
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