■カーター大統領の日本批判
ジミー・カーター大統領はずいぶんと誠実な人物だなと感じた。現職の米国の大統領なのに私たち日本人記者からの質問にひとつずつ、なんとも細かく丁寧に答えるのだ。ホワイトハウスのキャビネット・ルーム(閣議室)でのインタビューだった。大統領は日本メディアを代表する6人の記者の問いに、すべて詳細に応じていった。私の横には読売新聞の斎藤彰記者や時事通信の冨山泰記者が並んで座っていた。1979年6月のことである。
カーター大統領は母音を柔らかく伸ばす南部なまりで語るのだが、その声は小さく、ささやくようだった。誰かが水の入ったコップをテーブルで動かすたびに大統領の声はかき消されるほどなのだ。だが彼は質疑応答に1時間近くもの長い時間を費やしてくれた。
「アメリカはインドシナ難民の定住を何万人も受け入れたのに、日本の受け入れはわずか3人だけです。私は日本がもっと貢献できることを確信しています」
穏やかな語調を保つカーター大統領がただひとつ、声をやや激しくしたテーマがベトナム難民への日本の態度だった。
同大統領が日本メディアと会見したのは東京サミットに出席するからだった。主要先進国首脳会議はこのころ参加7カ国、G7サミットだった。1975年に始まったサミットの日本での開催は初めてだった。日本側では経済大国としての国際性を誇示する初の好機として官民が興奮していた。
カーター大統領は私たちとの会見で第一には石油の供給不安定などエネルギー問題への対応について語った。国際的な第二次石油危機のために東京サミットでも最大議題となることが確実なテーマだった。だが、その次に熱をこめて提起したのがベトナム難民の受け入れだったのだ。
ベトナム戦争の終結からすでに4年以上が過ぎていた。インドシナと呼ばれたベトナム、ラオス、カンボジアの3カ国は共産主義勢力に統治された。だが「解放」されたはずのこれら諸国、とくにベトナムからの住民たちの国外脱出が絶えない。大多数がベトナム政府の監視をくぐり、自前で調達した小舟に乗って、南シナ海へと逃げ出してくるのだ。ベトナム戦争中には起きなかった現象である。
この種の脱出者たちはボート・ピープルと呼ばれた。簡潔だが、痛ましい言葉である。小舟は公海で外国船に救われ、難民たちは受け入れを認める諸国に送られる。受け入れられたベトナム難民の総数は東京サミット直前の時点でも合計40万人ほど。ちなみにボート・ピープルはこの後もなんと1995年ごろまで続いた。各国への定住は合計200万人を超えた。その過程では小舟が沈み、海賊に襲われ、だれにも救われない、という運命にあい、命を落とした人たちが100万人近くに達したとされる。
カーター大統領が日本を批判した背景にはその時点で米国が24万人、フランスが8万人、カナダ2万人、西独4千人、イギリス2千人、イタリア300人と、主要各国がベトナム難民にすでに定住を認めたという実態があった。みな東京サミットへの参加国である。ところがわが日本はわずか3人、まだ外国からの難民を日本国内に定住させるという法的制度も整備されていなかった。そのうえ日本政府関係者たちは「日本は単一民族社会だから」という主張を難民拒否の理由に挙げていた。
私は大統領同行記者団の一員として東京に飛んだ。
その専用機内でボストン・グローブ紙のカーティス・ウィルキー記者に「大統領の『日本のベトナム難民受け入れはわずか3人』という発言はジョークか比喩(ひゆ)だと思ったら実は事実だと知り、仰天したよ。日本がアジアの指導的国家を自任することとは両立しないね」と皮肉られたものだった。
東京ではサミット全体会議でも、カーター大統領と大平正芳首相との会談でも、日本のベトナム難民受け入れの異端さは批判的に取り上げられた。日本としては自国の国際性をアピールする東京サミットで期せずして非国際性を摘出される結果となった。日米関係でも価値観を同じくするはずの同盟パートナーの両国が実は大きな差異を抱えるという現実の露呈でもあった。
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6096 日本はなぜベトナム難民を拒んだか 古森義久
古森義久
コメント
ボートピープルについて
日本が難民を受け入れる国でありたいというのは同じ思いです。ただ残念ながら日本に働ききた日系ブラジル人の受け入れ子弟の教育でも問題が多いです。フィリピンの看護婦さんも同様です。何かで読んだのですが、このときのボートピープルはほとんど中国系の人だと、さらっと書かれておりました。それは事実なのでしょうか。
周辺諸国の歴史を学べば学ぶほど、人道的な考え方もさることながら、多様な国民に対応できる教育、制度とともに治安組織や法律も必要な気がしております。