8162 三カ所の墓碑を菩提寺に移転する  古沢襄

東北の朝は肌寒かった。泊まった西和賀町湯本・対滝閣の女将が「18度ですよ。寒い!」と教えてくれる。涼しいというよりは、まさに”肌寒い”。前西和賀町長の高橋繁さんは「夏は短いな!秋が来たらと思っている中に冬がくるよ」と云う。前西和賀副町長の高橋定信さんは「冷夏で米が心配・・・」とつぶやく。
大型台風の襲来を聞きながら上野駅を発ったのだが、台風一過、むしろフェーン現象で猛暑がエスカレートすると思ったので、スポーツ・シャツの軽装で旅に出た。こんどの東北旅行は墓のことで菩提寺の和尚と相談するのが目的だったので、墓地を見るために軽装なことが必要だった。
とはいうものの80歳で足腰が弱くなったので、杖をつく三本足の旅。おまけに25日から白内障の手術を控えているので足元も目も不自由な旅。菩提寺の和尚から「杖をつくと先生は貫禄がつくな!」と冷やかされてしまった。
旧沢内村の中心地は代官所があった新町なのだが、その東の田圃の中に村人が「らんとうの墓地」と呼ぶ共同墓地がある。村の旧家の墓がある墓地。古沢一族の墓もいくつか建っていて、いずれも立派な墓碑が並んでいた。
しかし古沢総本家の墓は古い墓碑が、河原から運んできた石積みの山の上に乱雑に並んでいた。大正年間の末期に古沢総本家が没落して、墓の面倒をみる人がいなくなったからである。分家はそれぞれ立派な墓が建っているのだから、古沢総本家の十代目になる私が何とかしなくてはならるまいと和尚からは言われていた。
しかし、総本家とはいうものの私の家も娘二人が他家に嫁したので、十代目の私が死んだら絶家となる。総本家に一番近い分家は古沢善助家。善助は寛政2年(1790)生まれ、総本家の四代目古沢善蔵の弟に当たる。善蔵が盛岡藩の御境古人役だったように善助も御境古人役を勤めて帯刀を許されていた。
古沢総本家で六代目勇治には娘のマサしかなかったので、この善助家から養子・善五郎が入って七代目となった。私の死後は善助家が古沢総本家になるのだろう。ただ河原から運んできた石の山の上に乱雑に並んでいる古い墓の処理を善助家に任せるわけにはいかない。私の責任で墓の処理をして死んでいく責任がある。
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若い時には一軒の家を持ち、墓を建てることなどは考えなかった。母の影響もある。「私が死んだら、お骨は海に散骨して・・・」と言っていた母である。家を持ち、墓を建てることよりも、作家としていい作品を残して彼岸に行きたいと日記にも書き残している。
昭和24年10月の末、父・古沢元の死亡公報が届いた。昭和21年5月3日にシベリアの病院で戦病死したという黒枠の告知書。遺骨箱も届けられたが、中には「古沢玉次郎(本名)」と墨書きされた一枚の紙が入っていただけ。
父の弟の岸丈夫と相談のうえで遺骨箱は、東京・下落合にある岸家の旦那寺に一時預けることにした。「お前が一人前になったら古沢家の墓を建てればいい」と高校三年生の私に母は諭すように言った。
昭和40年になって川崎市の霊園墓地が当選して、父の遺骨箱はその墓地に納めたが墓碑を建てることは出来ないでいた。それでも母は「親孝行が出来たね」と喜んでくれた。この頃、盛岡市在住の文藝評論家・吉見正信氏がひょっこり訪れてきた。
作家・古沢元の事績を岩手大学の紀要に書きたいので資料を提供してほしいということだった。母からも聞き語りをすでに取っている。吉見氏は「古沢元の遺稿集をいつの日にか出したいものですね」と言って去っていった。46年も昔の話になる。
墓地に墓碑を建て、遺稿集を出すことが34歳の私の責任だとズシリと重荷を背負った感じだが、まずは二人の娘を育て、56歳になった母を引き取って同居することが先決だった。三年後に川崎の賃貸住宅を出て、神奈川県相模原市にある分譲アパートに入居、母と同居することが出来た。
吉見氏の研究論文は岩手大学の紀要に「古澤元の生涯」(昭和42年)として発表された。私が注目したのは岩手県沢内村の古沢家は代官所が置かれた享保20年(1735)頃からの旧家だったことである。吉見氏は「古沢家の歴史は村とともにある」と書いた。
母の実家がある信州の上田市で少年時代を過ごした私は父の先祖たちが生きた沢内村のことは、ほとんど知らない。吉見氏は手紙で「一度、沢内村を訪れなさい」と再三再四言ってきた。「古沢家の墓碑で最古のものは延享5年(1748)のものが読みとられる」と言っている。
昭和57年(1982)に母が亡くなった。享年72歳。
これを機会に父と母の遺稿集「びしゃもんだて夜話」を発刊した。同時に川崎市の霊園墓地に古沢家の墓碑を建立し、母の遺骨を納めた。私が背負った重荷を二つともおろすことが出来た。この年の夏、吉見氏の計らいで父の盛岡中学時代の同級生と盛岡のホテルで会合をもった。
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その足で初めて父の故郷・沢内村を訪れた。太田祖電氏が村長で役場で待っていた。夜は湯本の高与旅館で宴席を設けてくれた。菩提寺の玉泉寺に行ったら、今東光そっくりの和尚が本堂の入り口に掲げられた「一点山」の山額を指して「あれは古沢家のご先祖様が寄進したものです」と教えてくれた。沢内村を訪れて、先祖たちの生きた証がずっしりと、わが身にかかってきた。あれから30年近い歳月が去った。
核家族化が定着した世相の中で、家とか墓にこだわるのは時代遅れなのかもしれない。総本家も分家も古い考え方なのだろう。川崎市の墓を先祖が眠る沢内村の菩提寺に持ってくる話は、ここ数年続いたが若干、躊躇する気持ちがあった。
だが「らんとうの墓地」に立って、古沢総本家の墓碑だけが河原の石積みの上に乱雑に並んでいるのをみて、私の気持ちは固まった。一緒に来てくれた菩提寺の和尚と文学碑を建立してくれた阿部石材の年雄社長に「八月中に川崎市の墓碑移転の手続きを済ませましょう」と言った。
墓の移転は結構、面倒な手続きがいる。「らんとうの墓地」から寺に運ぶ石碑も目星をつけた。さらに雫石町の広養寺にある古沢理右衛門の墓も玉泉寺に持ってくる。三カ所の墓を一つの墓所にまとめるのは大変な作業となる。私を含めて十代の当主と家族の戒名を刻んだ「墓碑銘」も作らねばならない。
九月を目途に諸作業を進めて、雪が降る前に大移転をすることになった。私が死んだら、この新居に納めて貰う・・・。やはり作業は急がねばなるまい。
杜父魚文庫

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