9415 前島密と大久保利通 平井修一

前島密(ひそか)は日本の近代郵便制度の創設者の一人で、「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたことなどから「郵便制度の父」と呼ばれている。その功績もさることながら、明治2(1869)年3月の京都から東京への遷都は前島なくしてはなかったから、その功績も多大だ。
遷都の丁度1年前の明治元年(1868)3月、戊辰(ぼしん)戦争で関東、東北が騒然とし、江戸では彰義隊が気勢を上げているさなか、元幕臣の前島来輔(らいすけ、後の密)は維新政府の事実上の領袖、大久保一蔵(のちの利通)宛に東京遷都を勧める書簡を送っている。
大久保は天皇を「数百年来一塊したる因循の腐臭」である京都の公家社会から引き離すことが必要と考えていたようだが、当初は浪華(大坂)を有力候補地としていた。
前島が江戸を勧めるのは「江戸以東の騒擾は、薩長が天皇の名を借りて好き放題をするのではないかと不安になっているからで、王政維新の大業を明らかにするのであれば、東北に近い江戸にこそ遷都すべきだ」と説いている。
具体的な理由はこうだ。
 1)首都は中央にあるべきで、北海道開拓にも便利である。
 2)浪華は運輸の便がいいと言っても小型の和船向きで、これからの大型船の時代には合わない。江戸なら大艦を係留できる港も造りやすいし、横須賀にも近いから修繕にも便利だ。
 3)浪華の道路は狭いし、広大な土地がない。江戸なら道路も広いし、景観のよい土地もあるから大帝都の建設には最適である。
 4)浪華の市街は狭小で、車馬の往来や軍隊の収容のために改築すれば大きな費用が掛かる。江戸ならその必要はない。
 5)浪華に遷都すれば皇居や役所、学校などを新築しなければならない。江戸なら江戸城を修繕すれば皇居として使えるし、役所も藩邸もあるから国費はかからない。民の賦役も必要ない。
 6)浪華は帝都とならなくても衰退することはない。しかし、人口100万の世界有数の大都市である江戸が帝都とならなければ市民は離散して寒市になってしまう。大都市を保存し、皇威を示すために、国際上、経済上の利点を真剣に考えるべきである。
前島は理路整然と江戸遷都の利を述べるが、新政府はとにかく金がないから「江戸なら遷都費用がかからない」という点に一番魅力を感じたという。
首都・東京の生みの親は前島と大久保だったと言える。後日譚がある。
<8年後の明治9(1876)年春、内務卿の大久保は東京市(当時)の市区改正問題を前島を含む部下たちと協議しているとき、思い出したかのように次のように語った。
「そういえば、過ぐる維新のころ、遷都の地は江戸のほかないと論じて書を投じた江戸人がいた。彼は前島君と同じ姓で来輔という名前だった。今となっては、彼の卓見に感謝し、記録に残しておかないといけないが、その投書をなくしてしまったので、その主が誰だかわからずじまいなのが惜しまれる」
同席していた前島はあまりの愉快さにこらえきれずに、「閣下、その主は御前におりますこの前島密でございます」と答えた。
すると、大久保はおもむろに立ち上がってテーブルをたたき、「おおっ、君だったのか。迂闊だった。許してくれたまえ」と謝った>(南日本新聞)
前島と大久保は縁が深かったのだろう。大久保はそれから2年後の明治11年5月に暗殺されるが、全身に16箇所の傷を受け、そのうちの半数は頭部に集中していた。
前島はその数日前に大久保から「西郷と口論して、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」という悪夢を聞いており、事件直後に駆けつけて遺体を見た前島は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現し、大層ショックを受けたと伝えられている。
杜父魚文庫

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