津軽・・・この数年間、津軽の地を訪れたいと思いながら果たせないでいる。出来れば数日は逗留して古代史を彩る津軽の空気に触れてみたい。18日から三泊四日の東北旅行にでるが、今回は津軽まで足をのばすことが出来ないのが残念でならぬ。
梅原日本学で知られた梅原猛氏が『日本の深層』(1983年、佼成出版社)を発刊して30年の歳月が去ろうとしている。私が持っているのは初版本だが、『日本の深層』の副題は”縄文・蝦夷文化を探る”。この中で「みちのくの果てに栄えた華麗な文化」という項をおこして、北上川の歴史的な意義を述べている。
日本の多くの川は列島を横断するする形をとっているが、北上川は東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだに多くの水を集めて東北地方を縦断する川という点に着目した。
川の流域には縄文時代から多くの人間が住みついて、川そのものが重要な交通路になっていた。平泉の藤原氏の遺跡がある北上川、安倍氏の滅びを語る北上川、宮沢賢治の童話に出てくる北上川、啄木の歌に出てくる北上川・・・どこかに悲しいイメージが伴っていると梅原氏はいう。
さらに北上川の歴史を追うと、多賀城、伊治城、胆沢城、志波城、徳丹城などは大和朝廷の侵略の通路となった証である。いくたびのかの蝦夷征伐によって、この地の土着民は北へ追いやられた。その蝦夷が本州の北端・津軽に立て籠もり、強大な中央権力に抵抗をし続けた歴史が残っている。
その意味で北の王者だった安倍一族の興亡に強い関心を持って、ものを書いてきたし、同じ価値観をもつ直木賞作家・高橋克彦の考え方に共感を覚えている。
蝦夷が本州の北端・津軽に立て籠もり、強大な中央権力に抵抗をし続けた歴史が残っている・・・と言った。二年前の六月に「四散しても末裔を残した安倍一族の系譜」という表題の一文を書いたことがある。この中で津軽に落ち延びた高星丸のことを書いた。
<<四散しても末裔を残した安倍一族の系譜 古沢襄 2010.06.21 Monday name : kajikablog>>
天孫族に抵抗した北の王者の頭領・安倍貞任は、厨川柵(盛岡市)で戦死して一族は四散したが、その末裔は歴史に名を残している。私の小学校は東京・新宿区の愛日小学校といったが、仲の良い同級生に広沢中任(なかとう)さんがいる。兄は高任(たかとう)さん、弟が末任(すえとう)さんの三人兄弟。
曾祖父は会津藩士・広沢安任で、戊辰戦争で敗れて、遠く下北半島に流され、その地で畜産業を始めて成功した。この広沢安任は「奥隅(おくぐう)馬誌」という著作を遺している。
当時は広沢牧場主の一家という程度のことしか知らなかった。戦後になって競争馬のサラブレットで「ヒロ」がつく馬は広沢牧場から出ていると教えられた。ある時、中任さんが「東北の安倍一族の末裔なんだってさ・・・」と言う。貞任も宗任も知らなかったから「フーン」と言って聞き流した記憶が残る。
戦前の教科書には安倍一族のことは、ほとんど出ていない。朝廷に刃向かった”賊徒”という程度の扱いであった。「炎立つ」を書いた高橋克彦氏も「安倍一族と源氏の戦を記録している資料は、陸奥話記を除くとほとんどないに等しい」と嘆いている。
安倍一族の興亡史は戦後になって光が当てられたと言っていい。それは安倍貞任が厨川柵で戦死した後も、その末裔が歴史上の足跡をしっかり残して、妖しい光芒を放っている。
奥州藤原氏の祖となった藤原清衡(ふじわら の きよひら)は、厨川柵の戦の当時は七歳。母は貞任の妹だったから、捕らえられて母とともに処刑される運命にあった。事実、父の藤原経清は処刑されている。
だが、美貌だった母の色香によって清衡は救われた。安倍氏を滅ぼした敵将である秋田の清原武則の長男・武貞に母は見そめられた。、再嫁することになった母によって清衡は危うく難をのがれた。連れ子の清衡も清原武貞の養子となっている。母と子が処刑されていたら奥州藤原三代の栄華も生まれなかったことになる。
貞任の遺児・高星丸は厨川柵の戦いの当時は三歳。近臣に守られて落ち延び、津軽の地・十三湊で安東氏の祖となっている。興国の大津波で安東氏は祖地を失うが、一部は渡島いまの北海道に移った。岡本太郎氏のルーツが安倍一族だというのが事実とすれば、この系譜ではないか。
安倍晋太郎氏は安倍宗任の四十一代目の末裔を誇りとしていた。貞任が武勇に優れた猛将とすれば、宗任は知略に優れた知将といえる。貞任、宗任らの親は安倍頼良、十二人の子がいた。正室辰子(新羅之前)の間に生まれた実子は長男良宗・次男貞任・三男宗任。良宗は盲目であった。
貞任を滅ぼした源頼義・義家父子は捕らえた宗任を京都に護送したが、公家衆は宗任の処刑を求めている。宗任の知略を惜しんだ頼義・義家は助命を嘆願して、四国の領地に宗任を連れていっている。やがて肥前国松浦(まつら)で領地を賜り、宗任は宗像郡大島で七十七歳の生涯を閉じた。宗任の墓は地元の安昌院にある。宗任が京都で処刑されていたら、安倍晋太郎氏も安倍晋三総理も生まれなかったことになる。
もっとも晋三氏には晋太郎氏のような安倍一族に対する思い入れがないという。むしろ母親の岸元総理の長女・洋子さんの影響があるから、”長州っぽ”であることの誇りが勝っているのかもしれない。
平家物語の剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とあるほか、太平記には「源義家の請によりて、安倍宗任を松浦に下して領地を給う」と記載されている。鎮西要略によると「奥州の夷・安倍貞任の弟・宗任、則任を捕虜と為し、宗任を松浦に配し、則任は筑後に配す。宗任の子孫・松浦氏を称す」とも出ている。
安倍一族で四男照任以下は安倍頼良の正室の子でははないとされている。この中で五男・黒沢尻五郎正任が黒沢尻柵(北上市)を中心にして勢力を扶植していた。康平五年(1062)、源頼義の征討軍によって安倍一族の南端の防衛線だった小松柵(一関市谷起)が落城した。西からは秋田の清原氏の軍勢が迫ってきた。
秋田の清原武則が源頼義に呼応して安倍の領内に攻め込んできたわけである。全軍を指揮した貞任は、敵を懐に誘い込む戦術をとり、厨川柵で雌雄を決する防衛策に出た。黒沢尻五郎正任も僅かな手勢を黒沢尻柵に残して厨川柵に入った。康平五年九月のことだという。手薄となった黒沢尻柵には秋田勢が殺到して、たちまち落城している。
黒沢尻柵の落城に際して、黒沢尻五郎の正室の阿波見と長男孝任は東の北上山脈を越えて三陸海岸に落ち延びた(豊間根家譜)。黒沢尻五郎には妻子を連れて厨川柵に行くいとまがなかったのであろう。それが黒沢尻五郎の血脈を三陸沿岸に残すことになった。
安倍一族の末裔である豊間根家譜に次の記載がある。
正室の阿波見と長男孝任は下女二人、従者ともども十七人で北東閉伊地陸中の海辺に落ち、この地の味兵邑に土着した。名は安倍から阿部、石至下、石峠、豊間根と変えて、朝廷軍の追及を逃れた。
居所も大槌、糠森と変え、山田線の豊間根駅は山間部に近い。豊間根村は町村合併で山田町豊間根となる。また黒沢尻五郎は厨川柵の落城後、秋田に逃れたが、数ヶ月後に捕まり伊予国に流されて、その地で没した。
津軽を語る時には安倍一族の末裔・安東氏と興国の大津波のことを忘れてはならない。やはり二年まえにこのことを書いた。
<<幻の中世都市・十三湊と興国の大津波 古沢襄 2010.06.20 Sunday name : kajikablog>>
1987年7月末に安倍晋太郎氏が画家の岡本太郎氏と一緒に訪れた青森県五所川原市は、作家・太宰治の生まれ故郷だが、幻の中世都市・十三湊としても有名である。1340年に起こったとされる興国の大津波で一瞬のうちに壊滅したと伝えられている。
だが人口二〇万を数えた十三湊も興国の大津波も野史では伝えられているが、その事実は久しく謎に包まれてきた。1991年に十三港遺跡発掘調査が国立歴史民俗博物館と富山大学人文学部考古学研究室の共同作業で行われ、「津軽十三湊」の遺構が明らかにされた。遺構から中国製の陶磁器、高麗青磁器などが出土している。大陸との交易が盛んだったことが窺われる。
この交易に当たったのは厨川の柵で源氏に滅ぼされた安倍一族の末裔・安東氏であった。世にいう安東水軍で最盛時には700隻の船を擁していたという。安東水軍の資料によれば、十三湊に交易船が造られたのは1087年、高句麗の李晩鐘という漂着民が帰化して建造。ヒバ(あすなろ)の木を使ったと伝えている。
1340年の興国の大津波の際に出港中の安東船は536艘2000余人。十三湊の壊滅によって帰港できずに諸国に散らばり、その地に定住している。九州の松浦水軍は元寇の役で活躍したが、安東水軍の流れだという説がある。五所川原市観光協会のホームページで「中世十三湊の歴史と安東水軍」について詳しく述べている。
<発掘調査により明らかになった十三湊の遺構>
鎌倉時代から室町期にかけて港町として栄え、数々の貿易を行っていたと伝えられる幻の中世都市十三湊。中世に書かれた「廻船式目(かいせんしきもく)」の中では「津軽十三の湊」として、博多や堺と並ぶ全国「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとして数えられ、その繁栄ぶりが伝えられています。その他、複数の文献に、巨大な富を抱え、各地と交易を結んだ豪族「安東氏」の存在と共に記録されています。
この中世港町がどのように位置し、どのような役割を持つ町だったのか、また、1340年に起こったとされる大津波は本当にあったのか、その解明のために1991年から始まった十三港遺跡発掘調査では国立歴史民俗博物館と富山大学人文学部考古学研究室が調査に当たりました。
この1991年~1993年の調査によって、ほぼ当時のままの形で津軽十三湊の町並みや遺構が残っていることが明らかになり、これまでに確認された中世の都市としては東日本で最大規模とも言われ、西の博多に匹敵する貿易都市だったことが裏付られています。
調査班によれば、中世十三湊の町並みと推定されたのは東を十三湖、西を日本海にはさまれたやり状の砂嘴で、広さ約55ヘクタール。中央部を南北に推定幅4~5メートルの道路が貫き、街の中心部の道路と交差する形になっています。土塁の南側には、板塀に囲まれた短冊形の区画が整然と並び、京都の町家に似た庶民の住宅街が類推され、都市的な暮らしぶりや当時の人々の賑わいが伝わってくるようです。また、北側には十三湊の中心的な館があったことが分かり、当時の支配者の住居跡ではないかと推測されています。
その他、中国製の陶磁器、高麗青磁器などが出土しており、広く海外とも交易を行っていたことを裏付けることとなりました。これまで伝承と後世の文献でしか語られなかった中世幻の都市、十三湊。都から遠く離れたこの地域に、素晴らしい文化を持った都市は確かに存在し、海を越え、遠く海外と貿易を行いながら発展していたことが明らかとなったのです。
自由奔放な国際貿易を続けた男たちが、確かにここに存在した
平安時代の終わり頃、12世紀に作られた十三湊は、15世紀後半までの長い年月を国際貿易港として、環日本海社会の中心都市として栄えてきました。そして、海外との交易を深め、十三の繁栄を支えていたのが、今では謎の人物とも言われる安東氏の存在でした。
安東氏の先祖にあたるのが、平泉奥州藤原氏と共に激動の時代を生き抜いた安倍氏です。現在の奈良県と大阪府に連なる「生駒山」には、安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟を長とする一族が住んでいたと伝えられていますが、神武天皇の東征によりその一族が崩壊、神武天皇の手が届かない津軽まで落ちのびてきたと伝承されています。その子孫であるのが安倍貞任です。安倍貞任は、1060年に敗死し、当時3歳であった第二子の高星丸(たかあきまる)が乳母と共にここ津軽へと落棲、後に安東氏を起こした始祖と言われています。
やがて、安東氏は「十三湊」を本拠地とし、巨大な勢力「安東水軍」率い、十三湊を国際貿易港として繁栄させていくことになるのです。
この安東氏は、鎌倉幕府の北条市が東北以北の「日本の国境の外」を統一するものとして置いた人物で、十三の役人としての諸権利を北条家から与えられており、幕府がいかに安東氏を重視していたかがうかがえます。そして、幕府や地元はもちろん、アイヌなどの人々ともうまく立ち回り、その発展において欠かせない人物だったようです。
しかし、安東氏が築き発展させたと言われるこの十三湊は、日本史にもほとんど現れず、遺跡の発掘調査が行われるまで、言わば知られざる「もう一つの日本」でした。当時、日本のすぐ北には樺太などの少数民族、東北北部から道南にかけての地域が蒙古(元)と高麗(朝鮮)、沿岸州の各国が相互に交流を行い、日本海を中心とした一大文化圏を築いていたのです。そしてその「もう一つの日本」の中心として栄えた場所がここ市浦の十三湊だったと言われています。
■津軽地方=広義の津軽地方は、弘前市を中心にした南部の「中弘南黒地区」、五所川原市を中心とした北西部の「西北五地区」、青森市を中心とした北東部の「東青地区」の3つの地区で構成される。
津軽と呼ばれる地域が津軽平野南部から拡大してきた歴史的な経緯から、中心を中弘南黒地区と見て、中弘南黒地区のみ、あるいは、中弘南黒地区と西北五地区の2つの地区で狭義の津軽地方とする場合もある。狭義を用いる場合は、東青地区は「青森地方」などと呼ぶ。また、岩木川がつくる津軽平野を中心とした地域圏と認識される場合もある。なお、西北五地区から津軽半島にかけての地域を奥津軽と呼ぶこともある。
江戸時代には弘前城が置かれ城下町が開かれた弘前のある「中弘南黒地区」が中心になった。日本海側の鰺ヶ沢・深浦は北前船の寄港地となって栄えた。特に、鰺ヶ沢は津軽産米の積出港として、最も重要視された。
明治時代になり、廃藩置県により旧藩を引き継いだ弘前県(弘前藩)、黒石県(黒石藩)、斗南県(斗南藩)、七戸県(七戸藩)、八戸県(八戸藩)と北海道渡島半島の館県(館藩)の6県が合併し、弘前県が成立した。この際に県庁は弘前に置かれたが、初代県大参事の野田豁通が県庁を現在の青森市に移転し、県名を青森県とすることを決定した。さらに本州の鉄道の北のターミナル、および北海道との窓口となって青函連絡船が就航するようになったため、青森が存在感を増すことになった。
その後、弘前市は陸軍第八師団と旧制弘前高校を擁した軍事・学園都市として、1889年(明治22年)の統計では、弘前市は人口30,487人で全国29位、東北地方では仙台市、盛岡市に次いで3位だった。 戦後、日本軍の解体により第八師団も解散したが、弘前大学が新設されたことから、弘前市は引き続き学園都市としての性格を保ち続けている。
白神山地の世界遺産登録を期に、弘前ねぷた・平川ねぷた・黒石ねぷた・五所川原立佞武多をはじめとするねぷたなどの文化や雄大な自然を有する津軽地方は、観光地として集客能力を増している。
■津軽の歴史
歴史上の初出は655年『日本書紀』の斉明天皇元年の記述で、このころは「津苅」と書いている。ほか「東日流」「津刈」「都加留」などと表記されたこともある。中世には「平賀郡(津軽平賀郡)」「鼻和郡(津軽鼻和郡)」「田舎郡(津軽田舎郡)」の3つの郡(山辺郡(津軽山辺郡)」が分立していた時期は4つの郡)に分けて把握され、「津軽三郡」(または「津軽四郡」)と言われた。
鎌倉時代は安東氏などが支配したが、14世紀になると、南部氏が支配するようになる。戦国時代に津軽氏が支配した。近世になると、それまでの「平賀郡」「鼻和郡」「田舎郡」の3郡がまとめられて「津軽郡」となる。明治維新のあと、青森県の一部となる。1878年(明治11年)、東津軽郡・西津軽郡・南津軽郡・北津軽郡・中津軽郡に分けられた。(ウイキペデイアから抜粋)
杜父魚文庫
10089 北の王者・安倍一族に思いを馳せる 古沢襄
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