西安の阿倍仲麻呂記念碑が破損、ペンキをぬられ、次は横倒しか。台北の六氏先生顕彰碑は国民党の中華主義者が破壊した。
黒竜江省のハルビンから東へ。方正県までバスで二時間近くかかる。方正県の繁華街からタクシーで二十分ほど郊外へ行くと中国で唯一の「日本人墓地」がある。
満州開拓団が、ソ連の侵攻によって逃げまどい、ようやくこの方正まで来た。ハルビンを前にして、多くが生命をおとした地で、およそ五千人を祀る。
方正県はそのご、残留孤児のメッカとなり、本人と『育ての親』「親戚」を名乗る人たちが日本に十万人もやってきて「偽」が問題化したが、これは別問題。
遺族が中心となって、ようやく日本人の墓地ができた。筆者も三年前に二十人ほどで行った。広大な敷地で大きな石碑が二列。そこで菊の花を献花し、参加者全員で『海ゆかば』を謳った。
二年前、尖閣諸島でわが海保巡視艇に体当たりした暴力船長がいた。直後、反日デモが散発したが、おりしも『アラブの春』で独裁政権が次々と中東から北アフリカで転覆した状況だったので、恐怖におののいた北京政府は、大規模な反日デモを組織化させなかった。「反日」を口実に、反政府運動に拡がる可能性が強いからだ。
その代わり北京から『活動家』五人が飛行機でハルビンへ飛んだ。方正県の日本人墓地にペンキを塗った破損させた。彼らは「愛国英雄」と称えられた。
日本政府は損害賠償を訴えなかった。そして、こんどは西安で起きた。
この原型は台湾で起きている。芝山岩にある六氏先生の墓を傷つけ、破壊行為が続くのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B0%8F%E5%85%88%E7%94%9F(芝山岩事件)
同墓地のある公園のなかに、伊藤博文が六氏先生を検証する記念碑を贈った。戦後、国民党がやってきて、破損し、横倒しのまま長いこと放置されていた。陳水扁政権が修復工事をしたが、またペンキの殴り書きが絶えず、台湾にも大陸同様にねちねち反日家が存在していることを物語った。
◎阿倍仲麻呂 記念碑◎
下記に一年前に筆者が西安で探しあてた阿倍仲麻呂の石碑についての記述が残っていたので再録します。
(引用開始)「今回の取材はまず北京西駅から新幹線で鄭州へ。五時間。超満員。夜遅く着いて駅前旅館へ行くと「外国人は泊まれません」。しかたなく、別のホテルでチェックイン。八年ほど前に泊まったホテルではないか、と思いながらも駅前の景観が変わっていて、不明。
この鄭州を起点に洛陽も開封もみたことがあるので、未踏の崇山(少林寺の総本山)を目指してローカルバスに揺られ、登封という街へ。この街は人口二十万ほどだろうか、あちこちに武術学校、武道大学があり、学僧らがマラソンをしている。
つぎに向かったのは鄭州から西安。新幹線は、なんと実名登録が必要となっていて、どうやら新幹線乗車も身分証明が必要(飛行機と同じ)。二時間半ほどで、この区間だけは390元と高いのに、一等も満員。乗客はほぼ全員が中国人です。
西安もかれこれ四回目ゆえ、未踏の場所は阿倍仲麻呂碑。探し出しました。
市内からタクシーで二十分ほどのところ、公園のなかにあるというので、入り口で場所を聞くとすぐに分かった。西安では数年前に泊まった全日空の長堡宮ホテルが華僑資本に移り、ホテル名も変更されていました。
観光都市西安で最高級の一つは街の真ん中に建つソフィテル、これ以前の人民ホテル。いまや庶民とは無縁の高級ホテルに変貌していた。ここに西安で唯一食べられる日本食レストランがあるというので、試食へ。「鯉」という名前の料亭、ロビィの鯉が泳ぎ、庭は石庭と凝っている。味はなかなかのモノでした。仲居さんに福島に一年研修し帰国したばかりの娘がいた。
さて西安から長距離バスを探し出して、二百キロ西の宝鶏へ。とんでもない田舎町と思いきや摩天楼が林立し、国際ホテルがあるではないか。
尖閣問題直後におきた反日デモで、この宝鶏のデモだけが「馬英九歓迎」とあったので、いったいどういう街か、見たかった。
西安へ戻り、飛行機で太原(山西省)。ここも三回目ですが、今度は個人的に懸案だった崇善寺をなんとか探しだしました。五一広場は、やっぱり反日デモの場所。偶然ながら宿泊した三晋飯店の斜向かいだった。
太原から、北京への新幹線はわずか三時間二十分。
北京では連日情報通と会食、飲み会。物価の高騰ぶりは凄いです。というわけで、朝、ベットから跳ね起きて、飛行場へ駆け込み、搭乗五分前すべりこみセーフ。ところが台風の影響で出発が一時間遅れ、夕方へとへとになって帰宅しました』。(2011年5月19日付け小紙の「編集後記」を再録)
杜父魚文庫
10675 日本人墓地や記念碑を荒らしまわる反日行為 宮崎正弘
宮崎正弘
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