■羅福全元駐日代表の波瀾万丈の物語 逆境を逆手にとって自在に闊達に生きた
<羅福全『台湾と日本のはざまを生きて』(藤原書店)>
羅福全元駐日代表(大使)がジャーナリストの陳柔晋に語った波瀾万丈の人生を纏め、小金丸貴志訳、渡邊利夫序文という構成。
台湾版の原題は『栄町少年走天下――羅福全思想録』。すでに英訳版もでている。
嘉義市の栄町で生まれて育った少年が国際的な活躍をしたという意味だが、原題のニュアンスは『馬上少年過ぐ』の語感があり、波瀾万丈の人生が想像できる。いや実際に羅福全の人生は怒濤の時代を懸命に生きた、それでいた爽やかな印象なのである。
台湾の戦後の運命の悪戯で、留学先の日本と米国で独立運動に関わったためにブラックリストに載せられ、30年以上も異国に暮らし、母親の死に目にも会えなかった。
米国で発行した独立運動の新聞はカンパも先細りし、身銭を注ぎ込んで、気がつけば息子の入学金もなかった。
黄昭堂も黄文雄も、金美齢・周英明夫妻も、そして許世偕大使も、みな同じ経験をしたのに、会えばまったく悲壮感を感じさせなかった人々。さきに黄昭堂の回想録もでた。許大使の回想録も台湾で出ていると言うが、残念ながらまだ後者は翻訳がない。
さて羅福全は日本で早稲田と東大に当時に学び、米国へ留学して博士号を取得し、その後、国連職員として世界を飛び回り、この時代には国連の会議で北京にも赴き、朱容基首相(当時)とも会合を持った。
何かに評者(宮崎)が書いた記憶があるが、最初に日本に代表として赴任されて、台北経済文化代表処でパーティが開かれたおりに、伺うと、応接間に生田浩二の書が架かっていて、同席した中島嶺雄氏とともに「?」。
米国の留学先で知り合った生田は夫人とともに不運に火災で焼死、還らぬひととなった。羅が葬儀を催行し、遺骨を日本に送った経緯があったことを、そのおりに羅大使から聞かされた。
生田浩二とは知る人ぞ知る東大を一番ででた秀才で、60年安保の闘士である。だから同席した中嶋学長もよく知っていた。
生田は米帝国主義に反対した過激な学生運動ブンドの代表でもあり、「懲役一年六ヶ月の判決を受けたが執行猶予となり、数年後、共産党に失望した彼は米国に留学し、こんどは米資本主義経済の専門家となった」
ふたりは米国でも記録破りで博士号を取得した。
羅と生田は親友だった。「われわれは言葉が通じるのでいつも日本語で話していた」。ペンシルバニア大学留学中のことだった。
「私はいたたまれず直ぐに乗り出し、彼らのために葬儀を行い、学校で追悼式を開いた」
二人の骨壺を日本領事館に届けると、応対したのは宮沢泰総領事だった。かれは宮沢喜一の弟で、「日本人同胞の葬儀を台湾人が執り行って呉れた恩義に日本人として非常に感激する、と言っていた」
その後、国連を舞台に大活躍をする羅福全は決して順風満帆の人生ではなかったが、その悲壮な物語が、かくも爽快に語られると悲壮感がないのは人徳であろうか。
代表赴任中の最大のトピックスは李登輝総統の来日実現だった。
余談ながらことし1月の台湾総統選挙で台北に取材に行った折、或るパーティで、ひさしぶりに羅夫妻とばったり、立ち話をしたが、この回想録に日本語版が進捗していることはおくびにも出されなかった。
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