平沼赳夫氏と中川秀直氏は似た経歴がある。ともに養子なのだが、慶応大学の法学部出身。平沼氏は日東紡績、中川氏は日経新聞というサラリーマンを経験している。だが政治経歴はかなり違う。水と油の関係といっても良い。
平沼赳夫氏は生後間もなく平沼騏一郎元首相の養子となった。養子といっても血縁関係で結ばれた養子。赳夫氏の母・節子の祖父・淑郎氏は、騏一郎氏の実兄。兄の淑郎氏は大阪市の助役をした後に早稲田大学の学長になっている。
弟の騏一郎氏は大学の法学部を出て司法省に入った。平沼家の祖先は駿府の与力で弓道の達人といわれた。江戸・享保の頃、津山に移った士族。漢学と儒教に厳しい士族の家で育った平沼騏一郎氏は、法曹界の重鎮となり検事総長、大審院長、枢密院議長、第二次山本内閣法相、第二次近衛内閣内相、第三次近衛内閣国務相となって宰相の座についた。
騏一郎氏の人柄は秋霜烈日、寡黙な性格で酒を断ち、離婚後は独身主義を貫いている。この養父に育てられた平沼赳夫氏は、俗にいう政界の裏技とは縁がない堅物というのも育った環境の為せる技であろう。
平沼騏一郎元首相は元勲・西園寺公と不仲であった。「西園寺は新しがり屋だ。事なかれ主義ではないか。古いことをいわれるのは嫌っている」と批判した。といって右翼ではない。むしろ右翼から狙われ、昭和16年8月に「勤皇まことむすび」の西山直から狙撃されて頚部に傷を負った。敗戦時には徹底抗戦を唱えた青年将校に機銃掃射され、自宅は放火で焼け落ちた。この時、赳夫氏は六歳。
母・節子は勝気で親分肌の女性だったという。この修羅場のときも、出口に履物がなかったので、火をまたいで納戸へ引き返し、新品の桐下駄をはき、火つけの兵隊をにらんで出てきた。士族の精神を失わない一族といえる。
中川秀直氏は元衆院議員・中川俊思氏の娘と結婚して中川姓となった。義父の選挙地盤から新自由クラブ公認で初当選したが、次の選挙で落選。翌年の選挙で返り咲いて自民党に入党している。
無派閥だったが清和会に入会して、森元首相の側近といわれた。初入閣は橋本内閣で科学技術庁長官、第二次森内閣では官房長官に抜擢されたが、暴力団と関係ある女性問題が発覚して三ヶ月で辞任に追いやられた。
この事件は科学技術庁長官時代から尾をひく問題だったという。銀座の高級バアーのホステスと懇ろになり、お揃いのゴルフセットを買ったと週刊誌に暴露されたり、永田町に出回る怪文書にも風評が書かれた。
愛人通いや右翼との会食などスキャンダルが報道され、実力を発揮できないまま官房長官を辞任しただけでなく、これが支持率低下に悩んでいた森内閣に追い討ちをかけた面は拭えない。この時の官房副長官が安倍晋三氏、いわば兄貴分に当たるのが中川秀直氏といえよう。
しばらくは逼塞していた中川秀直氏だが、小泉政権下で国対委員長、政調会長を歴任して逆境を跳ね返し、安倍政権下で幹事長になった。手腕、力量ともに並々ならぬものがあって、野党とのパイプも太い。だが、世耕弘成参議院議員、木村良樹和歌山県知事とともに競売入札妨害容疑で逮捕された容疑者からゴルフの接待を受けていたことが発覚。ゴルフにかかった費用は全て容疑者が負担していたなどガードが甘い点が見逃せない。
新自由クラブに所属した様に政治的なスタンスは、平沼赳夫氏とは明らかに違う。安倍内閣の性格付けについて中川氏は”保守中道”と既定している。安倍首相は「かつての自民党は軸足がしっかりしていたので左を取り込む意義もあったが、今それをやったら根無し草になる」という見解を持つから、政治的なスタンスは中川氏よりも平沼氏に近い。
自民党は右から左まで幅が広い政党だから、決して悪いことではないのだが、一体であるべき首相と幹事長の間に齟齬が生じる危険性がなしとしない。とくに中川幹事長が左にウイングを広げると安倍首相との間に「左右」すれ違いが顕在化しそうである。参院選後に安倍首相が安倍カラーを出そうとする時が、その危険地帯に近づく懸念を持っている。
中川幹事長は「自民党の幹事長として、安倍総理の美しい国づくり、誇りの持てる国作り路線を推進していくことが大事な使命だが、その立ち位置は保守中道路線であろうと思っている」と力説しているのだが・・・。
302 平沼赳夫氏と中川秀直氏 古沢襄
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