1893 戦前の支那ソバの味 古沢襄

戦前のことである。夏休みになると信州の上田に行った。信越線で上野から六時間近くかかった。急勾配の碓氷トンネルを越えるのにアプト式歯状軌道を使って一時間もかかった。横川駅で蒸気機関車が電気機関車に代わるので、時間待ちすることになる。
今では駅弁の「峠の釜飯」が有名だが、私は母と一緒にプラットホームでかきこんだ駅ソバが懐かしい。プーンとネギの匂いがした。この峠を越えれば、母の実家がある信州があると思った。
ソバなら軽井沢の信州ソバではないかと思うが、軽井沢に着くと心は上田に飛んでいる。やはり碓氷峠を前にして横川駅の駅ソバだったんだと亡くなった母の心が今になって気づく。上田の旧藩士族の家に生まれ、高等女学校を卒業したら家の反対を押し切って、東京の実践女子専門学校英文科に進んだ母だったが、やはり信州の女であった。
上田の母の実家は商家である。母は両親を早く失ったので祖父母に育てられた。夏休みはいつも夕暮れになって上田に着くので、頃合いをみていたのだろう。「さあ、さあ早くお食べ」と曾祖母が支那ソバを二人前用意してくれていた。
「横川でソバを食べたんだけどね」と母は、毎年いつも同じ台詞をいう。だが私には駅ソバよりも支那ソバの方がいい。肉の回りが赤い焼き豚、味がしみた支那竹、それに渦巻き模様の丸カマボコの切れ端しがついている。少し時間をおいているので、ソバにスープの味がしみている。夏休みの楽しみは、味がしみ込んだ支那ソバで始まる。
この少年時代の経験は怖ろしい。私は今でも店で出来たてのラーメンを食べるよりも、出前で持ってきて貰うラーメンの方が好きである。会社勤めの頃は仲間とよく麻雀をやったが、配達されたラーメンの麺が適当にのびていて、スープの味がしみているのが堪らなく好きであった。一度、そのラーメン店に行ってみたのだが、どうも味が気にいらない。麺にスープ味がしみ込んでいないからである。
大学時代、世田谷の奥沢にあるアパートに住んだ。戦後間もない頃だったから風呂は銭湯。奥沢駅前の通りを自由が丘に向かって下ったところに銭湯があった。風呂からあがって自由が丘駅前のアーケード街に行くと小さなラーメン屋がある。
普通より小振りのドンブリに鶏ガラスープをたっぷり入れて、ちじれ麺と支那竹。刻んだネギが入っただけのラーメンだったが、主人がメンマを支那竹というのが気に入ってよく通った。スープを飲みほすと満腹感がある。
大学時代といえば、共同通信社に入って三年目に仙台から東京に転勤となったが、後任にやってきたのが東京外語出の新人。大学出のホヤホヤであった。私のいた六畳のアパートに、そのまま入って貰うことにしたので、十日間ほど私たち夫婦と新人氏が六畳間で寝起きする奇妙な生活が始まった。
私が一番奥に寝て、真ん中が女房、入り口に新人氏。今になって考えれば、新人氏を奥に寝かせて、真ん中が私、入り口に女房というのが常識。いやいや新婚一年目なのに、入社したての見知らぬ男と六畳間で三人寝起きする発想そのものが非常識といわれそうである。
だが新人氏は、この変わった夫婦にえらく感激した。「東京に戻られたら、ぜひ新宿のラーメン店に行って下さい」と地図を書いて貰った。東京外語のキャンパスは西武線の沿線にあったのか、新人氏は新宿についてヤケに詳しかった。
上京して紹介されたラーメン店に女房と二人で行ったのだが思わず顔を見合わせた。いわれた程の味ではなかった。むしろ不味いといった方がいい。学生時代においしいと思ったラーメンが、社会人になって食べると、それほどでもないということになる。人間の口は奢りやすい。
茨城県の田舎に引き籠もったので、最近はこれはと思うラーメンにはお目にかからない。もっぱら日本ソバ。見ることもなく、つけてあるテレビを眺めていたら、ギャル曽根というお嬢さんがうまそうにラーメンを食べて、スープを飲みほしていた。
食いぷり、飲みぷりがもの凄くいい。全国三十八種類の有名ラーメンを味見して一位だと言ったのが「埼玉ラーメン・ぜんや(塩)」。塩ラーメンだが、ものは試しと注文してみた。さて、お味はどういうものか?
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