69 魯迅の故里を訪ねて 吉村圭次郎

今年の3月、中国・杭州、紹興の両市を旅行し、魯迅の生家を訪ねてきた。
杭州市は中国十大風景名勝の一つ「西湖」があまりにも有名だが、さらに、海水の大逆流現象で人気を集めている浙江省第一の河、「銭塘江」がある。そして、これまた十大名茶の一つ「龍井茶」の産地でもある。
紹興市は紹興酒の産地として誰でも知っているところだが、魯迅の生まれた処としても現在は観光スポットになっている。魯迅故居、私塾三味書屋、記念館などの建物があって、多くの観光客が訪れていた。魯迅が17歳までこの地に暮らしたと説明書きにある。
そのほかに見所としては、明の時代に再建された東晋の名書家「王羲之」の石碑が展示されている美しい園林「蘭亭」もある。
魯迅記念館の一角は黒瓦の屋根に白壁という江南地方独特の建物が軒を並べ、狭い路地と運河に架かる石橋の配置は、いかにも中国、清代の風情だ。記念館の中に足を踏み入れると、正面に魯迅の座像が置かれ、館内には家族の写真、衣装、直筆原稿などが展示されていた。
魯迅が生まれた1881年は、清王朝を転覆させた辛亥革命の30年前にあたり、魯迅はそれまで300年続いた清朝が急速に瓦解してゆく様を見ながら育ったと言われている。彼の家は紹興でも格式ある旧家であったが、13歳の時、役人をしていた一家の主である祖父が、科挙の試験にまつわる不正事件にかかわり投獄されている。さらに父が病弱とあって、それらが重なって家は没落して行ったという。
この翌年(1894年)に日清戦争が始まり、敗北した清王朝は内外にその弱体化を露呈、「排満興漢」の民族主義運動が勢いを増して辛亥革命に近づいていったと言う。同時に弱体化した清国につけこんだ西欧列強国は利権獲得競争を活発化させ、ドイツは膠州湾を、ロシアは旅順・大連を、イギリスは九龍半島および威海衛をもぎとっている。11年後の1908年には光緒帝、西太后が亡くなっている。
1902年に魯迅は日本に留学、東京の弘文学院で2年間日本語を勉強して、仙台の医学専門学校に入学している。現在の東北大学医学部の前身だが、先日、東北旅行で仙台に立ち寄った際、市内地図を拡げていて、大学のやや正面に近いところに「魯迅旧居跡」とあるのを見つけた。さっそくその跡地に赴くと、小さな石碑が建っていて、当時の建物かどうかは定かでないが、廃屋に近い形で二階建ての家屋が残っている。
日本留学中の魯迅を大きく変化させた事件が発生している。作品「藤野先生」のなかに載っているが、その一部を紹介すると「第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形状はすべて映写を使ってハッキリ示された。授業が一段落してまだ時間がのこっているときは、時事の画面をいくつか写した。もちろんそれはみな日本がロシアに戦勝する場面であった。だが生憎と中国人がその中に混じっていた。
ロシア人のためにスパイをやり、日本軍に捕らえられて、銃殺されるところであった、それを取り巻いて見物しているのも一群の中国人であった。教室にはそのほかに一人の私もいた。『万歳』と彼らはみな手をたたいて歓呼した。(中略)その後、中国に帰ってきて、私は犯罪者が銃殺される場面を面白そうに見物している人々をみかけたが、彼らも酔えるがごとく喝采しないことはなかった。-ああ、何たることか!しかし、その時その地で、私の考えはすっかり変わってしまった」―とある。医学を諦めて文学へと進んだ魯迅には、この愚弱な国民性に対し、改造のための文学という一種の使命感があったーと資料館の中では説明している。
文学を通して自国の国民を自覚させようとした彼の理想は、当時文盲率の高かったであろう中国人の中で、どれだけの人間に理解されたのだろうか、彼の思想がどう革命に反映されたのであろうか、その後の歴史にどう生かされたのだろうか、毛沢東と魯迅はどのような位置にあったのだろうか、などいろいろと疑問が湧いてきた。
最後に松本重治さんの「上海時代・ジャーナリストの回想」(中公新書:昭和49年発行)から魯迅に関するところを拾ってみた。
▽魯迅の死と内山完造
昭和11年10月17日、蒋介石は杭州で華北の将領たちを招集して軍事会議をしていたが、上海では、その夕刻、内山書店で、魯迅さんと友人の日本人医師奥田杏花氏とが、日中交渉について次のような問答をしていた。
「『魯迅さん、日中関係はいったいどう落ち着くと思います?・・・』『だんだん悪くなる、騒ぎが大きくなる』『悪くなるという魯迅さんの論拠はどこにあるのです?』『僕の考えでは、強いものと弱いものと二つある。これ、なかなか仲良くならない。すぐ喧嘩をする。だから弱いほうが強くならなければ、喧嘩は止めない。つまり中国の軍備が、日本の軍備と対等にならなくっては、日中親善も強調もできない。力の同じものが喧嘩しても、怪我するだけだ。それはつまらん。その結果、親善だ』」と魯迅さんは答えて、うまそうに大好きな煙草に火をつけた。
「『いや大局論はともかくとして、当面の日中交渉の問題ですよ』
『今の交渉でも、だんだん悪くなる。日本は何を考えているか、わからん・・・・・中国も何を考えているのか分からん。・・・わからんもの同志ではなし合うの、これ一番危ない。僕はそう思っている。闇の中から牛を引き出すようなものだ』」(奥田杏花稿「死ぬ二日前の魯迅さん」から)。

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