最近、ラフマニノフの作品をよく聴く。朝夕の散歩は退屈だからMDこそが恰好の友。初め、といっても10年ぐらい前だが、ベトーヴェンをよく聴いていたが、飽きた。なんとなく理屈っぽいのが鼻に付く。
シューベルトを過ぎてチャイコフスキーを聴くようになったところ、対でラフマニノフがよく出てくる。チャイコフスキーが1840年~93年の人だから、ラフマニノフも古い人かと思っていたら、何と昭和18年まで存命だった、しかもアメリカで。オーバーに言えば私と同時代を生きた人なのだ。驚いた。
名高いピアノ協奏曲第2番・ハ短調(1901)は明治34年、「パガニーニの主題による狂詩曲」(1934)は昭和9年ではないか。私の生まれるたった2年前だ。
広辞苑(岩波書店)にも出てくる。「ロシアの作曲家・ピアノ奏者。革命後、渡米。ピアノ協奏曲・前奏曲などで名声を博す。(1873~1943)」とあるではないか。
対米戦相中の昭和18年まで存命だったせいか、ウィキペディア(事典)には出てこない。マイクロソフトの事典でようやく確認した。
ラフマニノフ Sergei Vasil’evich Rakhmaninov 1873~1943 ロシア出身のアメリカの作曲家・ピアニスト・指揮者。超人的な演奏技巧によって20世紀屈指のピアニストにかぞえられ、メランコリックな情緒をおびた作品はロマン派最後の輝きを放つ。
1873年4月1日、ノブゴロド近郊のオネグで生まれ、モスクワ音楽院で厳格な教師ニコライ・ズベレフと、ラフマニノフの従兄アレクサンドル・ジローティにピアノを学ぶ。
ジローティを通じて、その師リストの名人芸的技法と演奏スタイルを吸収した。また、3人の著名なロシア人作曲家、アレンスキー、タネーエフ、チャイコフスキーに作曲法などを学んだ。
チャイコフスキーは、ラフマニノフが終生敬愛した作曲家である。チィコフスキーより33年後の生まれである。
ピアノ前奏曲・嬰ハ短調(1892)と、モスクワ音楽院の卒業制作で作曲したオペラ「アレコ」(1893)で注目を集める。
97年、交響曲第1番・ニ短調を初演するが、さんざんの酷評をあび、神経を病んで作曲を中断せざるをえなくなり、以後3年間はピアノと指揮の活動に専念した。私のCDラックの中に第1番の無い理由がこれで分った。それにしても第2番は凄い。文章で表現できないから聴いて頂くしかない。
1900年に作曲を再開し、名高いピアノ協奏曲第2番・ハ短調(1901)を皮切りに、以後17年間に交響曲第2番・ホ短調(1907)、交響詩「死の島」(1909)、無伴奏の4声合唱曲「聖ヨハネス・クリソストムスの典礼」(1910)、アメリカ人作家エドガー・アラン・ポーの詩にもとづく合唱交響曲「鐘」(1913)をはじめ、多数の歌曲などを発表した。
歌曲は、今日でもひろく愛唱されている。06~08年にドイツのドレスデンに滞在したものの、それ以外はほとんどモスクワを中心に活動し、04~06年にはボリショイ劇場の指揮者をつとめた。
1917年、ロシア革命を避けて亡命。44歳か。翌年、アメリカに移住した。亡命後はピアニスト、指揮者としての演奏活動を優先し、レコーディングも多数おこなった。
この時代の作品は少いが、ピアノ協奏曲第4番・ト短調(1926)、ピアノ曲「コレリの主題による変奏曲」(1931)、ピアノとオーケストラのための「パガニーニの主題による狂詩曲」(1934)、交響曲第3番・イ短調(1936)などがある。43年3月28日、カリフォルニア州のビバリーヒルズで死去。Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved. 2006.12.05
312 亡命者ラフマニノフ 渡部亮次郎
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