1692 墓場にまで持っていく情報 古沢襄

昭和30年代の文部省記者クラブに半年いたことがある。別に文教行政を勉強したかったからではない。池田内閣が誕生して首相官邸記者クラブにいたのだが、新任の官邸長(キャップ)と大喧嘩して飛ばされた。27歳で血気盛んな頃だったから、よく喧嘩した。
当時の文部省は低姿勢内閣の”高一点”といわれた荒木万寿夫文相。口を開けば「日教組バカ野郎」、中央交渉を求める日教組とは会おうともしない。池田首相とは熊本の旧制第五高等学校、京都帝大法学部を通して同級生。
初等中等教育局長に内藤誉三郎という超タカ派がいた。あだ名が”タカ三郎”。後に大平内閣で文部大臣として入閣、文相としては槙枝元文日教組委員長と会談したり、松村謙三とともに中国を訪問して熱心な日中国交回復推進派となったから「タカがハトになった」とも揶揄された。
タカ派の巣窟のような文部省だったから真面目に取材して歩く気も起こらない。閑をもてあまして荒木氏の家に夜回りしたことがある。池田とのよしみで荒木氏は宏池会に所属していたが、その一方で自民党のタカ派集団である素心会のメンバーでもあった。
政治記者に夜回りをかけられたのは初めてではなかったか。応接間に通されて「しばらく待っていてくれ」と言われた。話を始めると役所でみせるタカ派文相とは別人の様な人物の素顔をみせた。
「妻の下着を洗っていたので・・・」と照れながらいう。奥さんが病気で臥せっているとは知らなかった。女中さんがいるのだが、他人に下着を洗わせるのは嫌がるという。それ以来、すっかり荒木フアンになってしまった。
七〇年安保を控えて佐藤首相はタカ派で名を売った荒木氏を国家公安委員長に登用。不思議な縁で私も内政記者クラブのキャップになっていた。仕事の方はサブ・キャップや記者たちに任せて、もっぽら国家公安委員長の大臣室で油を売っていた。
私が顔をだすと荒木氏はなかなか離してくれない。大臣室の外には後藤田警察庁次長が苦虫を噛みつぶした様な顔で待たされている。遠慮して腰を浮かせると「いいんだ。待たせておけば・・・」と大臣様は四方山話を続ける。七〇年安保はたいした事にはならないと見極めをつけていた。
私が荒木氏から聞きだしたいことがあった。文部省時代に「日教組の小林委員長ら幹部40数人が社会党に集団入党する」というスクープを抜いたことがある。このニュース・ソースは自民党のタカ派集団である素心会からであった。
この情報を持って新井薬師の槙枝書記次長の家に夜回りをかけた。「日教組は社会党系と共産党系に分裂する記事を書く」とぶつけたら槙枝氏は「分裂ではない」といって真相を語ってくれた。
スクープ以来、私が疑問を持ったのは素心会がどこから情報を仕入れたかであった。日教組の幹部の中に素心会に通じるスパイがいたことが考えられる。伊藤律事件のこともある。素心会にいた荒木氏なら真相を知っている筈である。
「新聞記者はニュース・ソースを秘匿する鉄則があるね。政治家も官僚も墓場にまで持っていく情報のひとつやふたつ持っているよ」というのが荒木氏の返事であった。
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