NHKが茨城県の下妻市、八千代町などに避難勧告と報じていた。追いかけるように私が住む守谷市でも280人に避難勧告。
川は上流から下流に流れる。鬼怒川上流の栃木県の避難騒ぎは、いずれ下流の茨城県にも及んでくると覚悟していた。もっとも高台にあるわが家には避難勧告は来ない。
東北の「古沢氏」のルーツは、常陸国だった下妻市と八千代町に現存している。古い地名の下妻市古沢には遠い先祖が同じであろう古沢姓の同族が多く住んでいる。
もっとも下妻古沢に由来する古沢姓は比較的新しい。むしろ鬼怒川西岸の八千代町に力があった豪族・赤松氏が古沢姓に改姓していた。私はこれを赤松系古沢氏と呼んでいる。鬼怒川西岸に行くと古沢性の家が軒を連ねてある。
と書いてしまえば、何の変哲もない”お話”なのだが、赤松が古沢になったいきさつが至極面白いので杜父魚ブログや歴史と神話に何本かの記事を書いてきた。
それを再掲する前に守谷市の避難勧告の記事を伝えよう。
■茨城 守谷市で280人に避難勧告
茨城県守谷市は、市内を流れる鬼怒川が氾濫するおそれが高まっているとして、午後1時10分に3つの地区、99世帯280人に避難勧告を出しました。(NHK)
■八千代町の教育委員会が教えてくれた赤松系古沢氏
八千代町の教育委員会に地方紙に精通した人がいた。常陸国の太守であった佐竹公と盟友関係にあった下妻・多賀谷氏の侍大将に赤松姓の武将がいたが、故あって古沢姓になっているという。
その研究家で古沢一朗さんという人がいると紹介してくれた。
元亀二年(1571)に後北条氏の大軍が下妻討伐の兵をおこして下妻城を囲んだ戦があった。城主の多賀谷政経は佐竹勢に応援を求める一方で、赤松常範に命じて城外の古沢邑で防戦させている。佐竹勢が駆けつけるまでの時間稼ぎだったが、常範は力戦して北条勢を粉砕している。
この戦は「赤松ガ左文字ノ刀フリケレバ 皆クレナイノ古沢ノ水」と世人から喝采を浴びている。この功績で古沢邑を知行地として与えられ、一族は赤松姓を改めて古沢姓になっている。しかし慶長六年(1601)に多賀谷氏は滅亡、古沢一族の多くは土着して武士を捨てている。
関ヶ原の役で多賀谷氏は佐竹氏と並んで石田三成方について、改易(取りつぶし)となり、下妻城は破却されたからである。常陸五十四万五千石の佐竹義宣は取りつぶしを免れたものの、出羽国久保田(秋田地方)二十万五千八百石に左遷、転封(国替え)の憂き目をみた。
資料をやみくもにかき集めてきただけに、この手の雑学となると脱線しながら停まることを知らない。下妻・八千代の古沢一族の多くは土着しているが、佐竹義宣の実弟・多賀谷宣隆に従って檜山城に赴いた者もある。
檜山城は現在の能代。しかし幕命によって檜山城も破却され、録を失った多賀谷家臣の多くは土着して四散している。時折、離別されて尼になった多賀谷重経の娘を囲んで、多賀谷氏の昔を偲ぶことがあったという。
それはそれとして、大軍の後北条氏を下妻古沢で迎え討って粉砕したのは、赤松常範の武勇もあるが、下妻古沢という湿地帯が大軍の一斉攻撃を許さなかった地形の利にある。
下妻古沢に行ったことがあるが、いまは湿地帯の面影はない。そうは言っても鬼怒川が氾濫はやはり気になる。
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