1343 福田内閣と米内内閣の類似性(2) 古沢襄

米内光政は政治家の素養があったが、自分では政治に向かないと言っていた。一番性に合っていると喜んだのは連合艦隊司令長官。それも「一切は部下に任せてボーッとしているよ。司令官というものは、難しいことは部下にやって貰うものだよ」とケロッとして言ってのけた。
それが二ヶ月で海軍大臣になるはめとなった。「海上第一線の連合艦隊司令長官という軍人の最高位から、海相なんて一軍属になるのは本意ではない」と抵抗したが、林銑十郎首相の組閣に当たって海軍の総意は米内海相にあった。林首相はむしろ政治性がある末次信正を欲しがったという。
それはともかく陸軍出身の林内閣は僅か四ヶ月の短命(昭和12年2月ー5月)で終わった。次の第一次近衛内閣(昭和12年6月ー14年1月)、さらに平沼内閣(昭和14年1月ー8月)と米内海相は留任、阿部内閣(昭和14年8月ー15年1月)の間だけが”お役ご免”になっている。阿部内閣の海相は吉田善吾。
この昭和12年から15年にかけてのは、12年7月7日の蘆溝橋事件に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本が泥沼の戦争拡大に入った時期に当たる。海相時代から日独伊三国同盟に反対し続けていた米内には、宮中重臣で信望が厚かった湯浅倉平内大臣が強く支持していて、阿部内閣が四ヶ月で倒れた後、米内に大命が降下している。
とはいうものの親英米派の米内に対しては、右翼や陸軍は初めから冷眼視されている。また近衛と湯浅は仲が悪い。湯浅が米内を阿部の後継首相として推したら「米内は立派な人物だが、政治家としてはどうか」と近衛は難色を示している。
近衛文麿の人物像は戦後になって解明されているが、公家らしい優柔不断と右翼に弱い迎合主義、面倒臭くなると投げ出す”殿様”気質の男である。だが藤原鎌足を祖とする五摂家の筆頭、三歳の時から宮中に参内した政界のエースとしてマスコミの寵児であった。(続く)
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