8149 快男子!! 秦野章・法務大臣 加瀬英明

私は晩成型(おくて)の子供だったので、中学に進むころまで、日本大学のほうが東京大学よりも、格が高い学校だと思い込んでいた。1都市の名がついた学校よりも、国名がついた学校なのだ。
父親が一橋大学だったから、家庭に東大を称えるような雰囲気がなかったせいも、あったにちがいない。
父親がエリート官庁に勤務していたので、同期の友人がときどき家に遊びに来た。父が手洗いに立った時に、「やはり一橋ですか?」とたずねた。すると、「トウキョウダイガク・ホーガク部だよ」と、いった。伯母が邦楽の名取りだったのを自慢していたので、てっきり太鼓でも叩くのかと思った。
父の友人が帰ったあとで、「××さんは、ホーガクが得意ですか?」ときいたところ、「コウタをやるが、うん、あまりうまくないな」と、切り捨てた。私は子供心に××さんに、深く同情した。
私も、私学で学んだ。タイムスパンしておとなになってから、雑文書きを生業(なりわい)としたはずだったのに、そのかたわらでお役人と関わりを持つようになった。福田赳夫首相の首相特別顧問として、対外折衝を手助った。園田“直(ちょく)”さんの外相顧問も、つとめた。そのころまでに、東大ホーガクブが法学だということを、心得た。
そのころ暇潰しに、教育学者が雑誌に小遣い稼ぎに寄稿した随想を、読んだ。「教育は人から引き出すものだ」と、説いていた。
私はすぐに納得して、同情した。東大ホーガク部では、気の毒なことに頭脳を引き出されて、頭がすっかり空らになってしまうのだ。
やがて、日本大学夜学部で学んだ快男子の知遇をえた。
秦野章さんである。都知事選挙に出馬された時に、「ハタノ・ビジョン」を書くお手助いをしたのが、きっかけだった。クラブによく誘われて、ナマオケや、カラオケの手解(てほど)きを受けた。演歌も邦楽である。苦労人だけあって、小節(こぶし)というよりも、拳(こぶし)が効いて、あの人の苦労人の人生が、そのまま歌になったようなものだった。
日大邦楽部、それも夜間部なのだ。いまの人々は、人生が楽の連続であるべきだと心得ているが、あのころは誰もが苦の連続だと思っていた。
演歌は人生の翳(かげ)を訴えていた。いまの日本は陰影(いんえい)がない、のっぺらぼう(ヌッペラボウ)の社会になった。目鼻口がない化物のようだ。歌舞伎『助六所縁江戸桜』に「のっぺらぼうか、物を言へ」という科白(せりふ)があるが、政界をみても目鼻口がない妖怪ばかりだ。
秦野さんが法務大臣になった。折から、ロッキード事件が起った。私はロッキード裁判が、アメ公のコーチャンに免訴の証言をさせたり、デタラメだったのを憤っていた。
大臣と早朝の六本木を徘徊した時に、カラオケの合間に、月刊『文芸春秋』でロッキード裁判に整合性がないことを批判する、対談をしましようよ、といった。
陽が昇るのを待って、月刊ブンシュンの田中健五編集長に、電話をいれた。舞台は暗転、いや、陽転して、料亭の1室へ移る。
法務省の法相秘書官も、同席した。酒に晩(お)成(く)型(て)なのか、私がすすめる盃を固辞した。
大臣がロッキード裁判のいかがわしさを、痛撃するごとに、エリート秘書官が蒼ざめた。秦野さんの「政治家に徳を求めるのは、八百屋で魚を求めようとするものだ」という、有名な箴言が発せられた。秘書官が俯(うつむ)いた。
なまよいして、靴(くつ)箆(べら)を使っている時に、秘書官に無邪気にたずねたら、やはり東大邦楽部の出身だった。『文芸春秋』本誌が発売されてからすぐに、数ヶ月前から新潟で講演を頼まれていたので、新幹線に乗った。
乗客の誰かが私を認めて、ワンカップ大関を買ってくれた。つぎつぎと握手を求められ、ワンカップの追加と、ビールを寄進された。アルコールか、郷土愛に泥酔して、熟睡して目が覚めたら、もう長岡あたりだった。
杜父魚文庫

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