1427 襲撃された側の話を聞く 古沢襄

政治記者になり立ての頃、迫水久常(さこみず ひさつね)という政治家のところによく通った。池田内閣の時代である。政局取材が目的だったわけでない。二・二六事件に関心があった。迫水氏は青年将校に襲撃された岡田啓介元首相の秘書官だった。
私ごとになるが、父・古沢元は青年将校側の橋本欣五郎大佐のブレーン。私の妻・恵子は北一輝の血縁に当たる。襲撃した側に縁があるので、襲撃された側の話を聞いておきたいという下心があった。
迫水氏は私の名刺を手にして「共同通信には親族の松尾文夫という男がいます」と開口一番言った。これには驚いた。松尾文夫氏とは同年の友人だったからである。外信部の記者であった。社会部の先輩記者・犬養康彦氏が五・一五事件で犠牲となった犬養元首相の孫であることは知っていた。
だが二・二六事件で岡田元首相の身代わりとなった犠牲者・松尾伝蔵大佐の孫が同じ職場にいるとは知らなかった。歴史の綾なす運命といったものを感じたものである。
松尾伝蔵・・・福井県人である。松平家の槍術指南の家に生まれ、旧制福井中学から陸軍士官学校第六期卒業。日露戦争では歩兵第35隊の中隊長として旅順攻囲戦に参加している。
岡田元首相も福井県人。福井藩士・岡田喜藤太の長男として生まれている。旧制福井中学から海軍兵学校に進学した。海兵第15期の卒業生。岡田元首相の妹が松尾伝蔵氏の妻。その縁で岡田内閣が誕生すると松尾氏は内閣総理大臣秘書官を拝命した。昭和九年のことである。
さらに迫水氏の妻は岡田元首相の次女。岡田官邸は親族で固めていたことになる。迫水氏は「共同には親族がいる」と言ったが、戦前の激動期の人物の末裔が共同という職場に集まっていたことになる。さらにいうなら松尾伝蔵氏の娘が大本営参謀だった瀬島龍三の妻となっている。華麗な閨閥の一族といわねばならない。
二・二六事件に戻ろう。昭和11年2月26日のことである。叛乱部隊の官邸乱入に気がついた松尾氏は「総理、早く逃げて下さい。早く!」と村上巡査部長、土井巡査とともに官邸の日本間に飛び込んできた。官邸中に非常ベルが鳴り響いている。
三人は岡田元首相を風呂場に押し込んだ。応戦した村上巡査部長が射殺され、土井巡査は兵隊の銃剣で刺されて息が絶えた。官邸の中庭にまで逃れた松尾氏は青年将校から斬りつけられ「天皇陛下万歳」を叫んで絶命している。
血のつながりはないが、岡田元首相と松尾氏はよく似ている。乱入した兵隊たちは岡田元首相を殺害したと思った。風呂場に隠れていた岡田元首相は、辺りが静かになると女中部屋に隠れた。秋本サクと府川キヌが岡田元首相を押し入れにかくまっている。
二・二六事件当時の首相秘書官は迫水氏だったが、難を逃れていた。官邸に入ろうとしたが阻止され、麹町憲兵分隊の斡旋でようやく中に入ることができた。応対にでた青年将校の栗原中尉が「首相の遺骸を見せるだけならいいだろう」と言った。
日本間に寝かされた遺骸をみて迫水氏はすぐ松尾氏だと分かったが、素知らぬふりをして官邸をあとにした。すぐさま大角海相に総理は生きていると告げて、陸戦隊の救出活動を要請したが、大角海相は「迫水君、その話は聞かなかったことにしよう」と逡巡したという。
ここで再び麹町憲兵分隊の力を借りることになる。森隊長が「人命救助は憲兵の任務である」と言ってくれて、まず少人数の弔問客を官邸に入れることで栗原中尉と話をつけた。憲兵曹長の小坂慶助氏が女中部屋に入って、岡田元首相を弔問客に変装させて奇跡の脱出劇が成功した。
迫水氏は終戦時の鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長として終戦工作の一翼を担っている。終戦詔書の起草に尽力した。敗戦後は経済企画庁長官・郵政大臣などを歴任した。自民党の参院幹事長時代には、河野謙三参議議長の実現に尽力した。昭和52年(1977)に七十四歳で亡くなったが、忘れえぬ政治家の一人である。
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