20992 鬼才画家・林倭衛の生涯   古沢襄

長野県の上田と云うと誰もが最初に思い浮かぶのは、六文銭の旗印を掲げた武将・真田 幸村の知略・武勇に優れた働きであろう。私は旧制中学校の一年から四年まで真田屋敷に 建てられた県立上田中学で学んだ。一年下に永六輔氏がいた。

上田の街は、郷土作家である新田潤氏が「片意地な街」の著作に書いたように時流に流 されない意固地とも思える風格を備えている。この風土から新田潤氏のほかジャーリスト ・山浦貫一氏、大正・昭和画壇の鬼才・林倭衛氏らユニークな人材が生まれている。

■新宿の美しい聖子ママ
 

話は飛ぶが、私は六〇年安保から七〇年安保までの十年間、政治部の第一線記者とし て疾風怒濤の時代を夜討ち朝駆けの取材競争に明け暮れた。国会から夜七時ごろ政治部に あがり、打ち合わせをして夜中の十一時ごろ政界の実力者の自宅に「夜回り」と称する取 材をかけるのが日課だった。

夜回りまで三時間ぐらい余裕があるので、新宿の伊勢丹にほど近い「風紋」という名前 のバーで時間待ちの時を過ごすことが多かった。私たちよりは何歳か年上と思われる聖子 さんと云う美人ママが看板の店で、出撃直前の時を過ごした。

手伝いの女性たちもインテ リ好みの垢抜けた美人揃いで、まだ二十七、八歳だった私にとってはまさに居心地の良い 息抜きの場所だった。聖子さんは三十歳前後だったろうか、まさに女盛りの美貌が目映い ばかりだった。

集まる客筋もジャーナリスト、大学教授、新劇の俳優などで、新宿のこの一角だけは、 安保騒動の激しい政治対立とは、全く無縁の静かな文化的雰囲気が満ちていた。風紋に通 いつめるうちに、聖子さんは「T」という高名な映画監督との恋に破れたばかりだという 噂も聞かされた。

そんな悲恋を感じさせない位、明るく客をあしらうママの立居振舞いに魅せらて、私はますます風紋通いにのめり込んでいった。

そんなある日のことである。「ジョウ君、君は上田中学だって・・・」と突然、いたず らそうな顔をしたママに聞かれた。

左様・・・私は風紋ではいつの間にか「ジョウ君」で 通っていた。この問いかけは重要な意味を持っていたわけだが、したたか酔っていた私はいい加減な返事をして、その場はそれで終わってしまった。ママが上田に縁がある人だったということも迂闊にも知らずにいた。

一ヶ月ほど過ぎたころだったろうか、珍しく客が少ない日のことである。私の前に坐っ た聖子ママは「昨日、ジョウ君のお母さんと千代さんのところで麻雀をしたのよ」と云われて仰天した。

何のことはない。私の母と聖子ママは、同じ上田の出身だった。千代さんとは、母の親友で文学仲間の古い付き合いである。この三人にもう一人が加わり、東京・ 中野にあった千代さんの自宅で、毎週のように麻雀を楽しんでいたわけだ。

まさにお釈迦様の手のひらに乗せられた孫悟空よろしく私は、母と聖子ママの監視下で 毎晩のように飲んだくれていたことになる。世の中の狭さをこの時ほど思ったことはない。 母はその頃、一人で世田谷・奥沢に住んでいた。

この話はまだ続きがある。母は信州の松平藩士族の生まれで、曾祖父は廃藩置県によって失職したが、転業した「士族の商法」が当たった数少ない商家の出である。家付き娘だった 祖母に迎えた養子が、大酒飲みで間もなく離縁となったが、その時には祖母はすでに母を 身ごもっていた。

二番目に迎えた養子は、田舎では珍しい外語学校の露文科出身のインテリで、やがて二 人の弟が生まれた。結局、長女の母は廃嫡となり、父親違いの弟が上田の旧家を継ぐこと になった。私の大酒飲みは、離縁となった祖父譲りのものかもしれない。

この弟、私から云うと叔父になる人物だが、洋画の造詣が深く、自分でも好んで油絵を 描いたが、上田が生んだ鬼才・林倭衛氏の作品を蒐集して、手に入るめぼしい林倭衛の油 絵を十数点も所蔵していた。

林倭衛の絵を購入するために、上京して、銀座の日動画廊に よく来ていた。田舎の商家で、平凡に一生を終わる寂しさを、好きな絵画の蒐集に没頭することで、まぎらわしていたのであろう。

叔父は年に何回か上京すると、奥沢の母のところに連絡してきたが、ある日のことだが、私の家に電話をかけてきた。「今晩、林倭衛氏の娘さんのところを訪ねたいので、時間の 都合をつけて欲しい」と云う。その晩は、夜回りを休んで、久しぶりに叔父に付き合うことにした。

そして連れていかれたのが新宿の風紋だった。すべてを承知の母は、私には何も教えないのだから人が悪いと云えば、これほど人が悪いことはない。さらに叔父にも私が風紋に通いつめていることを隠していた。

母には、こういう変わった側面があった。小説を書く意思を捨てなかった母は、聖子さんをめぐる人間模様が格好の生きた材料だったわけで、それがどういう展開を見せるのか興味に駆られていた。

「からくり」を教えてしまったら、案外つまらないめぐり会いの話に終わってしまう。姉と弟、そして息子が目に見えない細い糸で聖子さんに結ばれていた驚きと縁の深さが、どういうドラマを描くか、じっと見つめ、それを何時の日か自分の作品に織り込む意欲を持っていたのであろう。

■代表作「出獄の日の0氏」の物語
 

風紋に向かう新宿のうら道を歩きながら、叔父から手書きの地図を見せた。「風紋とい う名前のバーなんだがね」と叔父は云った。

「風紋なら知っているよ」と私は答える。叔父は立ち止まった。「そりゃ好都合だ。そこに林倭衛の娘さんが働いている」「ママを含めて三人いるが、名前は何と云うの・・・」「聖子さんという絶世の美人だ」「何だって ・・・」今度は、私が立ちつくして絶句する。

こんなやりとりの末に風紋にたどり着いた。叔父は聖子とは初対面だったが、林倭衛の作 品を十数点所蔵していた叔父が中心になって、信濃美術館で「林倭衛回顧展」を開くので、 聖子さんに展覧会の開会日にテープカットをお願いしたいと云うのが叔父の上京の目的だ った。さらに林倭衛の代表作「出獄の日の0氏」を聖子さんが所蔵しているので、その出品のお願いも兼ねていた。

私はただ驚くだけで、目の前に置かれたハイボールにも手がつかなかった。「ジョウ君はやけに大人しいのね」とママにからかわれたが、林倭衛の名前も初めて聞く有様で、借 りてきた猫のように、叔父と聖子さんのやりとりを茫然として見ているだけだった。

林倭衛・・・作家の有島生馬氏が回想記を遺しているが、零落した士族の次男を父に持 ち、小学校を出ただけで、二科会展で画壇に登場し、やがてフランスに渡り、モンパルナ スに近い安アパートに住んでルーブル美術館に通って西欧美術にひたった。明治二十八年六月一日に上田に生まれている。聖子さんは長女。

「出獄の日の0氏」は林倭衛が大正八年の第六回二科展に出品した作品で、アナーキス ト大杉栄の肖像画だが、保釈中のアナーキストの肖像が、公衆の前に展示されるのは問題があるという当局の命令によって、出品されなかったいわく付きの作品。大正末期から昭和初期にかけて社会主義の影響を受けた前衛芸術が一世を風靡したが、それはまたファシ ズムの弾圧を受ける前触れともなった。

この肖像画は、その後、長野県出身で内務省警保局長だった唐沢俊樹氏の秘蔵画となっ た。アナーキスト・林倭衛氏と警保局長・唐沢俊樹氏は、奇妙な取り合わせだが、親交があって、この問題作を譲り受けている。しかし、二・二六事件後、軍部から追及されるこ とを怖れた唐沢家から、林家に戻され、アトリエの奥深く隠された。日の目を見たのは、 戦後である。現在は遺児・聖子さんの所蔵画となっている。

「出獄の日の0氏」の事件は、皮肉なことに新進画家・林倭衛の名前を画壇ジャーナリ ズムに広げることになった。

林倭衛は太平洋戦争の末期に四十九歳でこの世を去ったが、 その作品は今日でも愛好家の間で秘蔵画として高い評価を得ている。残念なことは、晩年 の傑作五十点が東京大空襲の被害を受けて灰燼に帰したことだが、信濃美術館の「林倭衛 回顧展」には六十数点が出品された。昨年も東京・銀座で「林倭衛回顧展」が開かれている。

風紋の出来事以来、私も林倭衛氏の絵画に接する機会が多くなり、四十点ほどの作品に 触れたが、「フランス風景」「橋のある風景」「パリ郊外」など渡仏時代の風景画に惹か れる。晩年の「暮色」は妙高山の風景画だが、ひきこまれるような妖しい魅力を持った作 品である。

■軍人・役人大馬鹿野郎
 

林倭衛氏の魅力は、その作品もさることながら、その生きざまに人を惹きつけて放さな いものがある。一九六八年にベルンで開かれた平和自由同盟の会合で、バクーニンは自由 を否定する共産主義と決別し、アナーキズム宣言を行うが、林倭衛氏はアナーキズム運動に情熱を傾け、大正三年にはバクニーンの肖像「サンジカリスト」を第三回二科展に出品している。大杉栄との交友もアナーキズム運動を通した共感が根底にある。

大正八年の「出獄の日の0氏」で、林倭衛の名前は、一躍、画壇ジャーナリズムに喧伝 され、交友関係も広まるが、生来の酒飲みがさらに磨きがかかり、会合に出るといつも酒気を帯びていたと云う。

根が神経質で、多感な性情の人であった。心の安まる友人を求め て、人が恋しくて堪らない毎日であった。林倭衛氏の良き理解者だった山本鼎氏は「林倭衛君の画は暗鬱な重苦しい画の多いなかに際だって軽快に見える。物体はただ弱く表現されているが、それも蹉跌なく統一された画面は多くの人に好かれるだろう」と見事に林倭衛氏の絵の本質を突いた画評を述べている。これはまた林倭衛氏の人物評でもある。

渡仏した林倭衛氏は、新しい芸術思潮の胎動に思い切り浸る一方で、親しい仲間と酒を 飲み歩き、時にはパリ警察に留置される脱線劇もあったらしい。

大正十二年には中国人に変装して、日本を脱出し、パリに現れた大杉栄とも再会している。大杉栄は関東大震災のさなかに惨殺されたが、異郷にあった林倭衛氏はこの知らせを聞いて、茫然自失し、しばらくは慟哭が止まらなかった。

ファシズムが吹き荒れようとする日本には、帰る気持ちになれず、大正十五年に一時帰国したが、昭和三年に再び渡仏している。この時に富子夫人は聖子さんを身ごもっていて、結局、再渡仏は、短い期間で終わった。

帰国した林倭衛氏は東京・小石川で親子三人の水いらずの生活に入る。酒豪は相変わら ずだったが、帰国の年に春陽展の七点の作品を出品するなど、精力的な制作活動をしている。

画風も簡潔さはそのままだったが、表現に深みが備わり、色調も落ち着いたものになっていた。しかし時勢は、小林多喜二の惨殺に象徴されるプロレタリア文学運動の弾圧などすでに軍人が幅をきかせる戦時色が濃くなり、日本は無謀な太平洋戦争に向かって走り出していた。

この頃から林倭衛氏はよく旅に出ている。また房総の海岸にも出て、カンバスに海浜風景を描いたが、渡仏時代の南フランス・エスタックを想い出していたのではな かろうか。やがて房総の御宿に転居する。絵の具も酒も入手が難しくなる毎日が続き、林倭衛氏は心も身体も衰弱する一方だった。

太平洋戦争はすでに日本の敗色が濃厚となっていた。サイパン玉砕、東条内閣の退陣と 破局に向っていた昭和二十年一月十日、林倭衛氏は浦和郊外で死去。敗戦の悲劇を見ずに この世を去った。遺書に「軍人、役人大馬鹿野郎」と記されてあった。

母の弟が尽力した「林倭衛展」は昭和四十二年、長野市の信濃美術館で開かれた。テー プカットをした聖子ママはひときわ美しかったと叔父からハガキで知らせてきたのは、秋 風が吹く頃だった。

叔父が所蔵していた林倭衛氏の絵は、上田市の山本鼎記念館に寄贈され、愛好家の目を楽しませている。人の一生はあまりにも短いが、その作品は永遠の重み を持って後世に伝わっている。
 

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