86 アカシアの雨にうたれて 古沢襄

「アカシアの雨に うたれて このまま死んで しまいたい」・・・旧沢内村で二十年間も助役をやった佐々木吉男老の持ち唄が、西田佐知子の「アカシアの雨」。九十五歳とは思えない艶やかな声で唄う。盛岡の夜も更けてきた。
「夜が明ける 日がのぼる 朝の光の その中で」佐々木老の声が、ひときわ高くなる。そして「冷たくなった わたしを見つけて あの人は 涙を流して くれるでしょうか」と思い入れたっぷりに唄は終わった。
佐々木老が茨城県の我が家に訪ねてきたのが一九九七年五月。九年前のことになる。古沢元のことが郷里で忘れ去られているので、それを何とかしたいというのが、佐々木老の口上であった。新町小学校で佐々木老は古沢元より四年下「侠気ある秀才でした。あんな偉い人はいなかった」と涙を拭う。
私に出来ることは、一九八二年三月に発刊した遺稿集「びしゃもんだて夜話」の続編を書くことではないか、と率直に佐々木老に言った。「ようがすな!ぜひ、やって下さい」と佐々木老も後押してくれた。「沢内農民の興亡」が一九九八年四月に発刊されたのには、こういういきさつがあった。
この年の七月、盛岡で「古沢元の再評価」という講演会があった。実行委員長は佐々木老。その夜、盛岡のカラオケ・バーで初めて佐々木老の「アカシアの雨」を聞いた。古沢元の文学碑を西和賀町の玉泉寺に建立した時にも、佐々木老は杖をつきながら、建立委員会の委員長を務めてくれた。
「偉い人でした」・・・と佐々木老はいう。また古沢元を思い出しているのか、と思ったが違っていた。若い頃の佐々木老は、青森県弘前の第八師団第三十一連隊の兵卒であった。
第三十一連隊は陸軍少佐・秩父宮が、第三大隊の大隊長として新兵教育に当たっていた。第三大隊は満州事変で、中国の張学良軍に包囲されたが、自力で脱出した武運赫々たる部隊。「えらいことになった!」と佐々木二等兵は、秩父宮少佐の目にとまらない様に汲々としていたという。
しかし秩父宮少佐は皇弟らしくない庶民的で人情味ある上官であった。長身の秩父宮は6キロ行軍で雨中行進になると「外套を着ろ!」と命令したが、自分は外套もマントも着ない。ズブ濡れになった秩父宮をみている中に、佐々木二等兵は「侠気のある人だ」と感銘を受けたという。
一九三六年(昭和11)の九月から十月にかけて北海道で特別大演習ががあった。ソ連を仮想敵にした実戦的な演習だったが、佐々木二等兵は衛生兵として秩父宮と一緒に行動することを命じられた。農家の納屋で一泊した時には、皇弟ともあろう人が・・・と寝ずに張り番をしている。
そんな佐々木二等兵のことを秩父宮は見ていたのであろう。ある日「ソバとは何か!」と突然、質問してきた。面食らった佐々木衛生兵は「食べれば、分かるであります」と直立不動。北海道は最大のソバ生産地。誰かが、そうお話をしたのかもしれない。
特別大演習が終わって弘前の連隊に戻った時のことである。「大隊長がお呼びだ」と上官からいわれて、佐々木老は大隊長室に駆けつけた。「ソバを食べる」と秩父宮がいう。副官がいるのだから、それに案内させれば良いのにと思ったが、わざわざ自分に案内させようというのは、秩父宮らしい心遣いだと気付いた。馬に乗ってソバ屋に行く秩父宮を早足で追い駆けながら、「ソバカケがいいか、ソバモリがいいか?」と迷ったそうだ。
「アカシアの雨に 泣いてる 切ない胸は わかるまい 思い出の ペンダント 白い真珠の この肌で 淋しく今日も あたためてるのに あの人は 冷たい瞳(め)をして 何処(どこ)かへ消えた」・・・いつの間にか、佐々木老は「アカシアの雨」の二章に入っている。熱唱を聴きながら、ブランデーを傾ける。少し冷えてきた様だ。

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