8565 長崎に救われた秋田藩 渡部亮次郎

長崎―秋田には直通の飛行機便は無い。明治の初めは汽車もなかったからもっと遠かった。ところが戊辰(ぼしん)戦争の時、孤立した秋田藩を救ったのは長崎を始めとする西南雄藩の若者16,000人だった。
<戊辰戦争(慶応4年/明治元年 – 明治2年(1868年 – 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。
明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。>(ウイキ)
明治のはじめ、わが国に於ける新聞創刊状況を記録した「明治文化全集」第17巻の中の慶応4年=明治元年8月創刊になる長崎の「崎陽雑報」に秋田支援のことが詳しく書かれている。
それによると、慶応4年7月中旬から8月初旬まで外国船(機関船)2隻を借り上げ応援隊を3度送った。内訳は長崎府兵「振援隊」380人あまり、大村家280人余、島原毛159人、平戸家400人余などであった。
8日かかって7月28日、秋田に到着。一行は長崎に戻る船長に託して郷里へ状況を報告。「振援態の到着を現地司令官たる九条左大臣は大いに喜ばれた。我々は間もなく合戦に出動を命ぜられ、6隊にわかれたうちの5隊が出撃した」
東北地方における戊辰戦争とは、今の5県すべてと新潟が秋田(久保田)藩を敵とした戦争。藩祖がその昔、徳川幕府に虐められて水戸から減石移封された恨みから、独り、反徳川つまり新政府軍に組みしたのである。
案の定、隣の庄内藩は、大地主「本間家」からの経済支援によって近代軍備を整えて、総攻撃を掛けてきた。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」といわれた本間家である。
秋田勢はたちまち敗走。あわや落城というところまで追い詰められた。そこへ思いもかけぬ西南雄藩による海からの援軍。たちどころに盛り返して体面を保った。
主戦場は俳人松尾芭蕉がおとずれて1句を詠んだ象潟(きさかた)であった。その象潟町史では振援隊に今でも感謝を忘れず、大幅にページを割いて記述している。
それに依れば秋田側の戦死者は1326人、大村藩11人、島原藩4人などであった。
以後の秋田は金銀の鉱物、コメ、秋田杉などのお陰で、そこそこ栄えた。また関西と北海道を結んだ北前船の往来のお陰で太平洋側よりも文化の伝播も早かった。明治の初めに、東北で一番早く県立中学校が発足した。
しかし、戊辰戦争への参加が遅かった為、長州、薩摩藩には疎まれ、秋田県からは大将はとうとう出なかった。東北各県との関係にも未だに戊辰戦争の陰を感じる。
杜父魚文庫

コメント

  1. 啓天 より:

    このメールが見当違いの時はご容赦ください。
    この度、日本文学館より小説「渋太夫自害」を67歳で初めて書きました。
    全国の書店で購入できますが、無名の新人ですので取り寄せになると思います。
    内容は奥羽鎮撫総督「九条道孝」が海路より仙台に入ってから会津降伏までの約半年間、
    北は「きみまち坂の戦い」から、南は「旗巻峠の戦い」、「世良修蔵事件・秋田川反事件」、
    これらのかかわりなどを、パノラマ的にとらえたつもりです。
    それと幕末の桜田家と「養賢堂・北辰一刀流・清河八郎・坂本龍馬」のかかわりや、
    山南敬助と桜田家の関係も書いております。(販売は10月からです)

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