15906 金日成と朴正煕側近の秘密会談記録   古澤襄

八年前にワシントン・ポストの外交専門記者だったドン・オーバードファーが四年間の歳月をかけた「二つのコリア」のことを書いた。今でも朝鮮半島現代史を読み解くうえで、最高の傑作だと思っている。
何度読み返しても新しい発見がある。それは、このコリア・ウオッチャーは足で稼ぐ四百五十回のインタビュー取材が基本になっているからである。さらに未公開の政府資料、軍機密文書を入手して実証的な分析を行った。
今回も第一章「野鳥さえずる非武装地帯」で北朝鮮の金日成と韓国の朴正煕が、一九七二年五月四日に双方の側近による秘密会談を平壌で行っていたことが明らかにされている。大部の著作なので先を急ぐあまり、読んでも見落としていたのであろう。
金日成が反米なのは当然としても、朴正煕も牢固たる反米主義者。米国に極秘裏に核武装計画をフランスと組んで1974年に韓仏共同事業で一年間で約10キロのプルトニウムを生産できる再処理工場の技術設計が出来上がった。
ドン・オーバードファーは「韓国内の密告者の情報によってソウルの米大使館が知るところなって、ワシントンに極秘の情報評価報告書を送った」と述べている。フォード政権のキッシンジャー国務長官は深刻な衝撃を受けた。
最初に試みたのはフランスに対する阻止の説得工作。米ソウル大使のスナイダーは仏ソウル大使のピエール・ランデイに警告したが、仏大使は「ソウルに再処理工場を売る可能性は諦めない。韓国側からキャンセルを要請してきただけ計画を取りやめる」と微妙な対応で終始した。
秘密が漏れたことを知った朴正煕は、結局は米国の強力で断固たる反対(すべては秘密に行われたが・・)に遭遇して渋々フランスとの契約を撤回している。
この一件は朴正煕の反米志向を物語っている。
その脈絡で一九七二年の平壌における李厚洛・韓国中央情報部長と金日成の会談記録は注目に値する。この会談記録は李厚洛側近が保存し、17年後まで公表されなかった。
<李厚洛 朴正煕大統領と私は、統一は四大国(米国 中国 日本 ソ連)の干渉なしにわれわれ自身が成し遂げるべきだと信じています。われわれは米国や日本の手先ではありません。われわれは自分たちの問題を自ら解決すべきです。
金日成 われわれの立場は、統一問題について外国勢力に頼ることに反対することです。この点で朴正煕と同意します
李厚洛 朴大統領は外国勢力をもっとも嫌う人物であることを申し上げたい。
金日成 そうであるなら、われわれはすでに問題解決に向かっているわけです。外国勢力を排除しましょう。われわれは戦うまい。国を統一しましょう。共産主義とか資本主義とかいう問題は取り上げないようにしましょう。
李厚洛 人口四、五千万人の国家は強い国です。(1972年当時、南の人口は3200万人、北は1400万人)。われわれは弱かったために大国に屈しました。将来、大国はわれわれに屈するでしょう。はっきりさせておきたいことは、大国は統一を求めるわれわれの期待には口先で理解を示すだけです。しかし心中は、われわれの統一は望まないということです。
金日成 大国と帝国主義は一つの国をいくつかの国に分けることを好むのです。>
しかしこの会談を額面通り信じるわけにはいかない。朴正煕自ら「北朝鮮軍事力が重大な脅威となっている厳しい状況の中で対話は役に立つ戦術だ」と側近の金聖鎮に漏らしていた。側近によると朴正煕は生涯、統一が出来るとは信じていなかったし、統一に関心もなかったという。
金日成も南北対話を、米国と日本から南の政権を引き離し、在韓米軍を撤退に追い込む手段とみていたとドン・オーバードファーは解説している。
<ドン・オーバードファーの「二つのコリア」を読み返している。ワシントン・ポストの外交専門記者だったオーバードファーが四年間の歳月をかけたこの著作は、17年後の今日でも朝鮮半島現代史として光芒を失っていない。
現代史家は書斎の中で頭を使って書くので、多くの文献の孫引きになるきらいが拭えないが、このコリア・ウオッチャーは足で稼ぐ四百五十回のインタビュー取材が基本になっている。さらに未公開の政府資料、軍機密文書を入手して実証的な分析を行った。
「二つのコリア」を本棚から探して、あらためて読む気になったのは、ソウル発の共同電で韓国野党・ハンナラ党党首の朴槿恵(パク・クネ)代表が、暴漢に襲われ重い傷をおった記事を読んだからである。
朴槿恵は韓国大統領・朴正煕(パクチョンヒ)の長女。1974年8月15日に文世光事件で母親の陸英修(ユクヨンス)が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国し、1979年に父親が暗殺されるまでファースト・レディー役を務めた。
父と母を暗殺という忌まわしい事件で、失った数奇な運命を持つ女性だが、ハンナラ党の「ジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、2007年の韓国次期大統領選の有力候補の一人。凛とした美貌で人気がある。当時は五十四歳の未婚女性、いまも独身である。
盧武鉉大統領は北朝鮮による拉致問題には関心が薄いが、朴槿恵は訪韓した横田滋さんと会って、日韓が協力して拉致問題の解決に当たる姿勢を示している。次期大統領選の前哨戦といわれる統一地方選の最中、ソウル市内で遊説中に朴槿恵は暴漢から、カッターナイフで右ほおに長さ約10センチの傷を負った。
ソウル市長選はハンナラ党の呉世勲候補が優勢な戦いを進めているが、朴槿恵が襲われたことによって、地滑り的な勝利をおさめるのではないか。統一地方選挙でも盧武鉉のウリ党は各地で苦戦している。失地回復のために、金正日総書記との首脳会談を何としてでも実現したい、という盧武鉉の思惑がミエミエである。
その盧武鉉からすれば、北朝鮮を刺激する横田滋さんの訪韓は、迷惑至極ということになる。黙殺した理由は、そこにある。日本における韓国民団が朝鮮総連との和解に動いたのも、盧武鉉の世論操作とみるべきであろう。だが朴槿恵ハンナラ党の代表は、盧武鉉が無視した横田滋さんと会った。韓国マスコミも取り上げ、国民の間でも拉致問題が初めて話題となっている。
そこに降ってわいたような朴槿恵襲撃事件である。多くの国民は、あらためて朴槿恵の父と母の悲劇的な暗殺を思い起こしている。盧武鉉にとって想定外の出来事が起こってしまったことになる。おまけに北朝鮮は盧武鉉の平壌訪問を高く売りつける強かな駆け引きをみせている。
ところで「二つのコリア」には、朴正煕について面白い記述がある。戦時中に満州の日本軍官学校を卒業して少尉に任官した朴正煕は、戦後、韓国軍士官学校に入って陸軍将校になるが、1948年に麗水(ヨス)叛乱事件に連座して軍事法廷で死刑判決を受けている。
麗水叛乱事件とは、共産主義者の指導下にある一部の韓国軍が、命令に服さず「人民共和国」を宣言した事件。朴正煕は韓国軍士官学校における共産党細胞の指導者だったとして逮捕された。これは李承晩(イスンマン)大統領によって減刑、その後、転向して軍に復帰している。
1961年、朴正煕大佐が軍事クーデターのリーダーとして登場したが、ワシントンのケネデイ政権は朴正煕の過去の経歴からして、共産党の秘密党員という疑いを持っている。そしてCIAは大統領官邸がある青瓦台に盗聴装置まで仕掛けていた。朴正煕時代の米韓関係は冷え切ったものであった。
陸英修は在日韓国人の文世光(ムンセグアン)の銃弾によって倒れた。使用した拳銃は、日本警察の交番から盗みだした38口径。逮捕後、文世光は在日北朝鮮系の工作員から指示と援護を受けたと自白、自ら「革命戦士」と名乗っている。
暗殺のターゲットは、ソウル国立劇場で演説した朴正煕だったのだが、会場にまぎれ込んだ文世光は、緊張のあまり拳銃の引き金に指がかかって暴発、慌てて早撃ちをしながら通路を駆け下りた一発が陸英修の命を奪った。
その時、陸英修は鮮やかなオレンジ色の韓国服を身にまとっていたという。オーバードファーの目撃証言である。瀕死の傷をおった陸英修は数時間後に病院で死亡している。
「大統領警護官と暗殺犯の乱闘が起きている間、私は朴正煕の姿を見失った。しかし秩序は思ったより早く数分間で回復した。驚いたことに朴正煕は演説文を再び読み始めた。退場するとき、彼は妻の靴とハンドバッグが彼女の座っていた椅子の下に転がっているのに気付き、それを拾い出て行った」とオーバードファーは書いている。
朴正煕は、李承晩独裁政権によって悪化した対日関係を修復し、日本の経済発展をモデルにした経済システムを韓国にもたらした功績がある。しかし武力で権力を掌握した強権・独裁政治によって、反対者を拘留、逮捕、投獄する暗黒政治でもあった。
暗いイメージが付きまとう朴正煕に較べて、陸英修は優雅で魅力的な姿をし、はきはき喋った。「これは夫がまるで持ち合わせない要素だった。彼女は朴正煕が均衡と抑制を保つための役割を果たし、世の中の考えを知らせる反響装置となり、人間的な影響を彼に与えた。彼女の死後、朴正煕は一層、孤独となり、引きこもり、人々から疎遠になった」とオーバードファーは陸英修の死を悼んでいる。
1979年10月26日、朴正煕はKCIA部長の金載圭(キムジェギュ)によって暗殺されて、この世を去った。長女の朴槿恵は父親よりも、母親似の性格だという。あまり暗いイメージがなく、優雅で、はきはき喋る物腰から、陸英修の再来だという人もいる。そうであって欲しいと願うのは、私だけではあるまい。(杜父魚ブログ 2006・7・12)>
杜父魚文庫

コメント

タイトルとURLをコピーしました